パクスオクスリーナ: 苦悩者さま

苦悩者さま

組織的抵抗がなくなったからといって、個人的抵抗がなくなるわけではない。しかし、個人的抵抗に対する弾圧は、一切行われなかった。組織的反対運動に対する(巧妙な)弾圧は行われたが、個々の人にオクスリを強制することは、全くなかったのである。

オクスリアンではない従来型人類の生活はつらいものであった。それは、今の私たちの生活が辛いものであるのと同じ程度の「つらいもの」なのだが、その本来のつらさに「そのつらさから抜け出せる容易な道があるのに・・・・・・・」というつらさが加わるだけ、つらさの質が異なる。それを、誇りと受け取るか、情けないと受け取るかの違いはあるが、質が異なることは確かである。

さて、オクスリアンは従来型人類にどのように接したのか。オクスリアンは、この分からず屋たちに絶大なる尊敬をもって接したのである。従来型人類がいらいらしたり、おみだらな感情に苦しめられたり、際限もなく沈み込んだり、突然包丁を振り回したり、その他、見苦しい行為の数々に陥ったとしても、オクスリアン連中は、唯々尊敬の眼差しを投げかけてくるのみであった。

「この方たちは、オクスリに頼らずに戦っていらっしゃるのだから!」

というわけである。

従来型人類がどこに逃げようとも、パクスオクスリーナへの侵略者に安息の地はない。バルコニーから、曲がり角の向こうから、バスの中から、タクシーの中から、宅配便の運転席から、交番の中から、そして田舎に逃げたとしても、牛小屋の奥から、麦畑のまん中から、干し草の山の中から、オクスリアンは襟元の乱れを正しながらその柔和な顔を現し、分からず屋めがけて無慈悲なる懲罰とも思える慈愛に満ちた暖かく優しい視線を投げつけてくるのであった。それはパクスオクスリーナに対する侵略者共の活力を完膚なきまでに削ぎ取って行く効果を持っていたのである。

やがて、従来型人類は「苦悩者さま」と呼ばれるようになった。朝起きてドアを開けると、果物とか、野菜とか、手編みのマフラーとか、「がんばってください」と刺繍されたハンカチとか、そういったものが山と積まれ、中には、やっと平仮名が書けるようになったかな、というつたない字で「おうえんしています」と書かれたカードまで混じっているのである。そういったお供えが、毎日のように積まれているのである。これは辛い・・・・・・

普通に人間らしく生きようとしているだけなのに、いつのまにか、一生右手を上げ続けるインドの苦行者のような立場になってしまったのだ。これに宗教が絡むと、もっと辛い。家の前の通りが、いつのまにか「お坊様通り」とか「御聖人アベニュー」とか、へんてこりんな名前の通りになっているのだ。からかっているのではない。心底尊敬しているのである。これは、まことに辛い。

葛藤というものは、本来、滑稽なのである。我々が(つまり従来型人類が)それを滑稽と感じないのは、自分たちも葛藤で満たされているからである。幸いなことに、我々は、従来型人類の感性という大気のなかで生息しているのである。しかし、この大気を剥ぎ取られ孤立した従来型人類には、この「滑稽」が否応なしに突きつけられてくる。それなのに、「御聖人」などと呼ばれているのである。

夜中に悶々として暗闇で布団から身を起こすと、隣の家の曇りガラスに人妻がパジャマに着替えるシルエットが見える。これが「御聖人」を悩ませるのである。なんと滑稽なことであろうか。いったい自分は何をしているのだろうか。「御聖人」の悩みはつきない。半径5キロメートルの領域において、真夜中にこんなことで悶々としているのは、「御聖人」である自分だけなのであろう。もう、こうなったら、いっそのこと暴動を起こしてしまおうか。今から隣の家を訪ね、「一晩だけ!」とお願いしたらどうなるだろうか・・・ 残念ながら、答えはわかっている。夫は一瞬の驚愕の後に気持ちを決めて、寂しそうな、しかし信頼と愛情に満ちた微笑みと共に妻を促し、妻はこれも一瞬の驚愕の後に夫と優しく視線を交わし、こちらに歩み寄って来るのであろう。いや、全く、こんな恥ずかしいことができるはずがない。「苦悩者さま」の苦悩はつきないのである(えっ? ご厚意は有り難く頂けば良いだろうって? なるほどそれも分からないではないのだが、そう考える人々はとっくにオクスリアンになっているはずなのだ)。

やがて、また一人の「苦悩者さま」がオクスリの世界に飲み込まれてゆく。

さて、オクスリアン達は、この「苦悩者さま」をどのように迎えるのだろうか? もちろん、軽蔑でも嘲笑でも「やっぱりね!だから最初から」でもない。真冬に迷子になって一週間ほど行方不明になっていた飼い猫が戻ってきたように、手放しで喜ぶのである。ならば、「苦悩者さま!苦悩者さま!」と尊敬していたあの尊敬は、いったい何だったのか、と言いたくなるが、オクスリアンにとってこれは矛盾でも何でもない。「苦悩者さま」を尊敬し励まし、同時に、オクスリアンの幸せに迎えることを喜ぶのである。

今まさにオクスリアンとなった元「苦悩者さま」は止めどもなく頬を伝って流れ落ちる安堵の涙を拭うことも忘れて、やっと訪れた静かな安らぎに浸り、彼を迎え入れたオクスリアンもまた、ご一緒に止めどもなく喜びの涙を流すのである。なんかつまらない人たちなのだが、これがオクスリアンである。

もはや世界に、犯罪はなく推理小説はなく、戦争は無く「戦争と平和」は無く、恋と友情の葛藤はなく「二都物語」は無い。恐怖は無く「夜と霧」は無く、抑圧はなく、こんな世界なのに「華氏451度」は無く、わからないことはいくらでも有ると雖も謎は無く、アオヤマくんは悲しまず、腐れ学生は存在せず、学生はなんらの葛藤を伴わずに毎回講義に出席しては、一時間の授業時間に対して二時間の予習復習をするのであった。実に、つまらない世界であるが、世界は観客を喜ばせるために存在しているわけではないのである。

このようにして、時間は掛かったのだが「苦悩者さま」は絶滅した。

しかし、死亡統計という数値で見るならば、途方もない死者を数えるテロ(レジスタンスというには、鎮圧側があまりにも寛大なのである)も起きた。そう、起きたと言えば確かに起きたのだが、それはテロリストサイドから見れば大事件であったとしても、パクスオクスリーナ側からは記憶に残るものではなかったのである。記憶に残らない危機のなかには、ひとつ間違えればパクスオクスリーナはおろか人類絶滅にさえつながりかねない危機もあったのだが、ひとつ間違えなかったので、記憶に残らない以前に危機としてすら認識されていない。この危機を招いたテロリストについて語るのは後にして、まずはパクスオクスリーナの下での一生を眺めることにしよう。