パクスオクスリーナに向けて
この三年間はなかなか愉快な時代であった。なんといっても、一番不利益を被るのは、麻薬稼業従事者である。もちろん、なんとかこの計画をつぶそうとするのだが、はなっから勝ち目のない戦いである。国家権力の網をくぐって「してはいけないこと」をすることは可能でも、国家権力が、しかも国際連携のとれた国家権力が「してはいけないこと」を始めると、それを止める力など持っていないのだ。その辺の事情は、悲しいことに小学生の悪ガキ共の置かれた立場と、似たり寄ったりであった。
かわいかったのは、マフィアさん、ギャングさん、ヤクザさんたち、これら「けんかの強い市民団体」の皆さんが仲良く、「麻薬の害がどれほど恐ろしいか」というキャンペーンを繰り広げたことである。それはとてもオモシロイ現象であり、さすがに事象をよくご存じの方々だけのことはあって、キャンペーンの内容は秀逸だった。いや、秀逸と言ってもその秀逸である度合いは「よくご存じ」という程度を遙かに超えたものであり、ユーモアもあり涙もあり上出来、具体的には三谷幸喜がお辞儀しそうなほどに上出来であった。要するに、「悪の頭領」という連中はやはり頭領なりの才覚の持ち主であり、なにごとも「やれば出来る子」であったようだ。そのあたりは、小学生悪ガキ一般とはひと味違うのであろう。だが、結果は、「微笑ましいなあ」という暖かい感情を引き起こした以上には、なにもなかった。国家権力をなめてはいけないのである。
まともな反対運動も、もちろんあった。しかし、それら「まともな反対運動」の天敵は、言っていることは「まともな反対運動」とほとんど違いないのだが、圧倒的にお馬鹿な「まともでない反対運動」であり、鎮圧側はこの「まともでない反対運動」をうまく利用して事前に活発に活動させることにより、「まともな反対運動」をも「お馬鹿な連中」と分類させることに成功したのである。
振り返ってみるならば、悪の頭領たちも、「まともでない反対運動」の方々も、そして「まともな反対運動」の一部の人たちも、これらの人たちがあっさり引っかかってしまった罠は、「オクスリというものは強烈な快楽を追い求めるもの」という思い込みなのである。しかし、実を言うと、この「オクスリ」の「快感」は、自分にとって重大な何かを、それが「今やりたいことをすること」、「今やりたくないことをしないこと」、「一緒にずっと暮らしたい人とずっと一緒に居ること」、「最愛の子供たちと・・・以下同文」、それらいずれであろうとも、その何かを放棄したとき、放棄の代償として哺乳類の生体システムが与えてくれる独特の「ご褒美」なのであり、「オクスリ」はそれを増幅しているにすぎないのだ。したがって、オクスリにより「我慢して<やるべきこと>をやりとげる」人々は、「オクスリの快楽」という報酬を得るために今は我慢しているのではなく、我慢すること自体が直ちに報酬となっているわけだ。しかも、この「オクスリ」は、最後にはこの「代償としての快感」に浸ることまでも慎むようになるという、恐ろしいまでに御立派な徳性を与えるものだったのである。
このようにして、オクスリ漬けの人々「オクスリアン」達は、破綻しきったジャンキーになるどころか、底なし沼のような優しさをもった不気味な超人へと変わって行ったのである。
したがって反対運動は、初期の闘争においてまったく的外れな反対を繰り広げていたわけであり、失敗に気づいたときには、すでに有効な反撃を行い得る時期は過ぎ去っていた。こうして組織的抵抗は次々に立ち消えになっていった。そして、その空白に風が吹き込むように、パクスオクスリーナは実現していったのである。