8.戦争と平和
トルストイの「戦争と平和」では読者の迷惑も顧みずに,物語から外れた議論が延々と展開される。ここでも,「戦争と平和」という表題をつけた以上,迷惑な議論は義務であり,また,迷惑な議論を展開するためにこそ,この表題としたのである。
8.1 原因と結果
さて,この戦争の原因はなんだったのだろうか。戦争は,会談での怒りにより始まった。したがって,この戦争の原因は怒りである。なぜならば,その「怒り」が生じなかったなら,この戦争も生じなかったからである。
それでは,「怒り」の原因はなにか。それは,King Arthur の悪ふざけであろう。もし,King Arthur がそのような悪ふざけをしなかったなら,「怒り」も生じなかったからである。よって,戦争の原因は「悪ふざけ」ということになる。
これで,良いのだろうか。
・・・「がなかったなら,・・・は生じなかった」
ということで原因を決めるなら,この戦争の原因は,「浜のマッチョ」であろう。なぜなら,「浜マッチョ」がそこを通りかからなかったなら,King Arthur の思いつきも生ぜず,したがって「怒り」も生ぜず,戦争は発生しなかったからである。
それでは,「浜マッチョ」が原因かというと,他にも「原因」はあり,踏み台をいすの代わりに使っていた小者がその場を離れなかったなら,踏み台が目にとまることもなく,思いつきも生じなかったであろう。原因は1つとは限らないのである。
面倒なので「浜マッチョ」に限ったところで,それでは「浜マッチョ」がなぜ古江戸に住み着くことになったかと言うと,その原因はナウシカである。
ある日,ナウシカが浜辺を歩いていると,波打ち際に裸の男が打ち上げられていました。したがって,名前はユリシーズ(オデュッセウス)です。
ナウシカアーは,珍しい生き物の方に歩いて行きました。そして,もうちょっとで「どうしました?」と声をかけてから裸の男を拾って帰るはずの所まで近づいたのですが,そのとき,ナウシカは虫を見つけました。青い目がたくさんある,とても珍しい虫をみつけたのです。ナウシカは,うれしそうにその虫を抱きかかえると,「きちゃだめー!」と言いながら走って行ってしまったのです。
意識を取り戻しかけていた裸の男は憮然として,「ムシデスカーイ」とつぶやきました。
こうしてユリシーズは,「ナウシカに介抱され元気になってからナウシカを捨てて故郷に帰ってメイドさん虐殺事件を起こす」という,輝かしい歴史を実現することが出来なくなってしまいました。ユリシーズは観念して古江戸に住み着き,ユリシーズなどという名前は捨て「松っちゃん」という名前を選び,「浜松っちゃん」と呼ばれるようになったのです。
まず,「浜マッチョ」が「浜松っちゃん」に変わっているが,歴史資料の食い違いは,よくあることだ。
「・・・を因として・・・という果が得られる」
という関係は,双方向のものである。
「ナウシカが砂浜に打ちあげられた裸の男に出会ったのだから,その男はユリシーズ」
であり,同時に,
「砂浜に打ちあげられた裸の男に出会ったのだから,このナウシカは(あのナウシカではなく元祖)ナウシカ」
というわけだ。
せっかく,あのナウシカではなく元祖ナウシカだと確定したのに,「来ちゃだめー!」などと言ってはぶち壊しである。わかっているのだが,止められないのだ。あのナウシカが好きだというだけでなく,重層イメージのままの展開こそ,日本の心だからである。
西洋の音楽にある二つのメロディーの同時進行を思い浮かべてほしい。日本の心においては,ストーリーの本流のイメージと同時に,もう一つのイメージも展開して行くのである。
そんなたいそうなものでなく,
ナウシカ = きちゃだめー!
から離れられなかっただけでしょ,と言われると,まあそうかも知れないが・・・・・・たぶんそうなんでしょうが・・・・・・だから何だって言うんです?
さて,ナウシカの選択は,戦争の原因となったのと同時に,日本の将来にとっての深刻な分岐でもあったようだ。即ち,植物系優位への分岐である。ナウシカはムキムキの裸の男でなく,虫を選んだのである。その結果ナウシカ自身,「おほげつひめ」 に寄り添って生きてゆくことになり,ナウシカに選ばれなかったことが原因となって,「薔薇」に象徴される西洋騎士道の華麗なるご婦人崇拝は,日本では開花することがなかった。その後の日本では,Katz 伯とクララが出会うための屋上庭園ではなく,草の生えた屋根などという妙なものを好むようになり,また,西洋騎士好みの「あめのうずめのみこと」 の登場するシーンは,ほとんど無くなってしまうのである。それどころか,カトリーナタイプを好むあまり,「あめのうずめのみこと」 のようなアプロディーテータイプを「うざーっ!」と退けてしまうようにさえ,なってしまうのである。まことに,ひどい話しである。
さて,原因の系列の探索に戻って,ナウシカの選択には,ナウシカ,青い眼がたくさんある虫,ユリシーズの三者が必須である。ここから,また,それぞれの経路の探索が必要になる(しかも,虫の経路は人間の世界には収まらない)。探索の木は,どんどん枝分かれしてしまい,手に負えなくなってしまう。したがって,むやみに原因を遡ってはいけないのであり,どこかで打ち切る必要があるのだが,どこで打ち切るかが難しいのである。真に,困ったことである。
8.2 偶然と必然
それでは,「偶然」というものに登場してもらうことにしよう。
「この戦争の原因は怒りでした。怒りは偶然が重なって生じました」
偶然というものは,なかなか頼りになる。
「偶然」と言っても,「確率」などというものを持ち出そうとしているわけではない。歴史は,赤玉が三個,青玉が七個入っている袋ではないからである。ここでの要点は,「めったに起こらないはずの事象は無視」という感覚である。成る程,「めったに起こらないはずの事象」が起こることもあるだろうが,そのときは,「偶然そうなったのだから,それ以上分析する必要はない」と割り切れば良い。
では,「めったに起こらないはず」の偶然かどうか分かるのかと言うと,不幸なことに一般には,すでに生じている結果における「偶然」は,なにかとやっかいなのである。
幸福の女神くじに当選した人がいる。この人は幸福の女神くじを買ったことにより幸せになったのである。しかし,この「ことにより」には「偶然」が絡む。それも,極めて希な偶然でしか,「ことにより」は機能してくれない。この辺の事情は,我々はくじに外れた多くの人々がいることを知っているので,明らかである。
一方,Katz 伯の黄泉路の旅である。この設定では,「振り向いてはいけません」と言われた以上,我々は「振り向くことになるな」と予想する。大抵のお話ではそうなるのだ。それらのケースでは,「振り向いたりしたら,めっ!」と言ってくれる優しい気遣いはなかったのだろうか。
鶴や鯛の恩返しシリーズにおける「見ちゃだめ」でも同じことである。「見ちゃだめ」と言われれば見たくなる。もう少し実効的な念の入れ方はなかったのだろうか。嫁に逃げられるのは必然なのだろうか。必然でないまでも,蓋然性の高い結果なのだろうか。
実は,そうではない。日本には,鶴女房に逃げられなかった多くの鶴女房の夫がいるのである。鶴女房の夫の集団の中では,嫁に逃げられた夫は通常の集団での場合と同じく,少数派である。しかし,古希を過ぎた爺様が縁側でお茶を前に
「婆さんはな,実は元は鶴でな,・・・・・・」
と語ったところで,
「はい,はい,お爺ちゃん。赤ちゃんはコウノトリが運んできますよね」
と軽く流されてしまうだけであろう。これでは,郷土史研究家と雖も記録する気にはなれない。つまり,物語として成立しうる例外のみが物語として残ったのであり,蓋然性が高いと思われた「見ちゃだめと言われれば見ることになる」という予想の根拠も,実は例外ケースだったのである。
すでに生じている結果についての「偶然」というものは,なにかと難しいものなのだ。
8.3 隠れた意図・主要な要因
「偶然」というものを導入する一番の御利益は,原因と結果の鎖の一端を,偶然という「外の世界」の影響に担わせることができることである。極端な話,「すべては偶然」としてしまえば,それで済む。その意味では,ネコテ史観やエキナ史観という手もあるのだが,これは「まじめにやれ!」と叱られるのが関の山であろう。もう少しまじめに「偶然」の向こうを張りたいならば,「隠れた意図」を持ち込めば良い。
「風のいたずらで,偶然,矢が甲冑の隙間を通り抜けた」
とする代わりに,「風の神の手に導かれ,矢は甲冑の隙間を通り抜けた」とするのである。早い話,幸福の女神に選ばれると当選するということ。
これは必殺技である。しかし,何でもありになってしまうので,使い過ぎは禁物である。
原因の連鎖を単純化したいときの,もうひとつの道は,多くの原因のなかから「主要な」原因を選び出すという手法である。しかし,なにを以て「主要な」と判別するのか。どの原因も「それがなければ,これがない」という点では変わらない。それにも関わらず「主要な」と言おうとすると,なんらかの定量的要因を持ち込むか,もしくは,登場人物の思考や決断を追い求め得る経路を「主要な」とするか,まあ,そういったところか。
まず,前者には,まともなものがあるとは思えないので,無視する。
後者であるが,物語では,登場人物の行動が理解可能であるように話を展開してゆくので,後者の意味で「主要な」経路をストーリーとして組み立てることになる。歴史も,いわゆる客観的資料という制約の下での「物語」であるとするならば,自信たっぷりに物語を展開できるのだろう。しかし,「物語」としての側面を完全に避け,あくまでも客観的な理解を追い求めるとなると,なかなか難しい。そもそも「客観的」とは何なのかが問題になるのだが,もうひとつ,「登場人物の行動が理解可能であるように話しを進める」と言うときの「登場人物」というものも,問題を含む。
それでは,「客観的」については後回しにして,まず,登場人物の問題で一騒ぎしておこう。
8.4 歴史の登場人物
8.4.1 タタライスキ
英雄やお姫様ではなく,国や部族を登場人物とする場合である。英雄やお姫様の悩みや決断について話すように,国などの集団の決断の物語を語ると壮大ではあるが,集団は集団である。
南紀新宮の巫女さんとなったロシア娘「ホート・タタライスキー」,後の「姫タタライスキー」であるが,「タタライスキー」という名前には,当時の日本人の「ロシアだからこんな名前であるべきだ」という思い込みが入っている。
正しくは
タタライスカヤ
である。しかし,当時は「・・・スカヤ」にインド風の響きを感じ取り,
ロシア人はみんな「・・・スキー」のはず
とまとめてしまったのである。彼女はおおらかな人だったので,また,シベリア縦断では男装などというものをしたこともあったので,まあ「タタライスキー」でも良いかと妥協したのであろう。
なんと言っても,当時の日本人の異国に対する知識を考えれば,高望みはできなかったのだ。
しかし,そもそもロシア,ロシアと喜んでいるが,「タタライスキー」(タタライスカヤ。もしくは,それが訛ったタタライスケ)(⇐)は明らかに「タタール」から成り立っている。ロシアは複雑なのである。ホート・タタライスカヤという名の「ホート」は敵将の名前である。また,「タタライスカヤ」はロシア風の名前と言っても,「タタライスカヤ」に過去のロシアへの侵略者「タタール」の響きが含まれている。
それでは,タタライスカヤは敵の名前かというと,敵と言うならば,いったい誰の敵なのだろうか。タタライスカヤは「彼女こそロシア!」という容貌のロシアのお嬢さんである。ロシアのお嬢さん無くしてロシアに何の意味があろうか。タタライスカヤこそがロシアなのである。タタライスカヤに含まれるタタールは,それを含むタタライスカヤの侵略者に成り得ない。したがって,ロシアの侵略者には成り得ない。
現実のタタライスカヤは,なかなか入り組んでいるが,「過去のロシア」を侵略した「タタール」と言えば,単純なものである。「タタール」という登場人物が「ロシア」という登場人物を侵略したというわけである。モンゴルなのかタタールなのか,などということは問題にならない。「タタール」という登場人物なのである。
個人よりも個人の集団の方が単純だとは,なんとも便利なことであるが,これは擬人化である。集団は集団に過ぎないのである。
一方,「集団は集団であり単純な擬人化は止めましょう」と言い過ぎると,「タタライスカヤが・・・・・・とした理由は・・・・・・である」という構文も怪しくなってくる。タタライスカヤも,その時その時のタタライスカヤが同一であるわけではなく,「とした理由」はインタビューに答えたとか日記に書いたとか,ちゃんと文章で考えたとかいう意味での理由であり,それ以外にも例えば,小説家お得意の「・・・・・・とタタライスカヤは考えたのだが,本当の理由は」という自由にして奔放なる理由もあり,その場合,気の毒なことにタタライスカヤさん本人が反論しても,受け入れてもらえないだ。タタライスカヤさん本人も含めて,それぞれがタタライスカヤさんを擬人化して語っているのである。
8.4.2 ヒトラー暗殺
ロシアであれタタライスカヤさんひとりであれ,それは「集まったもの」であり,また,分析をすると「散じるもの」である。これが,牛込から出てきた足軽連中の歌っていた
あつまりさんじてひとらーかわれど
というフレーズのうちの,
集まり散じて,
ということの意味である。
それでは,「ヒトラー変われど」は何を意味するのだろうか。こんな「お題」に答えるのは,オーチャードサロンの面々が得意中の得意とするところだが,ここでは,美貌の魔女 The Lady of Green Kirtle さんにお願いしよう。
1936年8月の終わる頃,ベルリンの古ぼけた建物の地下室,私はマンドリンのような楽器を手に,一人の若者に問いかけます。この若者は,これから Hitler 暗殺に出かけようとしているのです。
私は暖炉にお香をくべると,
------thrum------thrum------thrum------
とマンドリン(のような楽器)を静かに爪弾きながら,語りかけるのです。
「外の世界になんて関わることはありません。わたしのお膝に頭をこてっとしてお休みなさい。それはね,とても気持ちの良いことなんです」
若者は答えます。
「私にはこれからの歴史がわかるのです。Hitler は悲惨な戦争を引き起こし,多くのユダヤ人を虫けらのように殺し,その財産を奪うでしょう。私は,この命を捨ててHitler を殺しに行きます」
------thrum------thrum------thrum------
「若者よ,そんなことをしても,ちっとも良くはならないのです。私は,その後の歴史を知っているのです。1936年に Hitler は暗殺されます。そして,Iitler が力を握り,悲惨な戦争を引き起こし,多くのユダヤ人を虫けらのように殺し,その財産を奪うのです。人々は,Hitler が生きていたら,こんなことにはならなかったと嘆くでしょう」
「たとえそうだとしても,私に続くものが現れて Iitler を殺すでしょう」
------thrum------thrum------thrum------
「そんなことをしても,ちっとも良くはならないのです。私は,その後の歴史を知っているのです。Iitler は暗殺されます。そして,Jitler が力を握り,悲惨な戦争を引き起こし,多くのヘブライストを傷つけぬよう丁重にポーランドの荒野におつれして,財産もろとも焼き払うでしょう。何も奪わず,何も残さずに。人々は,Iitler が生きていたらホロコーストは起きなかったのに,と嘆くでしょう」
暖炉から立ち上る香と,単調に繰り返されるリズムと,そして微妙に混乱してくる話しの作用でしょうか,若者は頭がぼーっとしてきています。それでも,気力を振り絞って答えたのです。
「私に続くものは何人でも現れます。必ず Jitler をも殺すでしょう」
------thrum------thrum------thrum------
「そんなことをしても,ちっとも良くはならないのです。私は,その後の歴史を知っているのです。Jitler は暗殺されます。そして,Kitler が力を握ります。 Kitler は世界は自分のものだと思っているので,暖かいお日様を浴びてソファーで寝ているだけです。なにもしてくれません。それなのに世界は Kitler のものであり,人々は Kitler につくすでしょう」
------thrum------thrum------meow------
------meow------meow------purrrrr---
若者には考える力は残されていませんでした。ひなたぼっこをしながら気持ちよさそうに寝ている Kitler のイメージだけが頭に飛び込んで来ます。若者は,ふらふらと立ち上がると,私の膝に頭を預け,眠ってしまいました。
うふふ。
んっ? Hitler の名前が変わって行くだけで,何の説明にもなっていないではないか。頼んだ相手がまずかったか。
しかし,さりげなく"purr"(英語趣味での 猫のごろごろ)を忍び込ませているのは,魔女ならではである。これは見逃せない。
有り難くも根古名三女神(チ,ミ,タマ)の"purr" であるが,チー,ミー,タマのごろごろは
タマpurr, ミーpurr,ミータマpurr,チー速purr
であり,これから
魂ふるえ,身ふるえ,御魂ふる,ちはやふる
という言葉が生まれたのである。特に,「タマ震え」は人として生きる上で大切であり,「タマ」を欠いてしまうと「掛けまくも畏き」,「恐み恐み」
といった気持ちを欠いた非人間的な怪物として生きることに成りかねない。
そういえば,Hitler は若い頃,猫にタマを一つ奪われている(⇐)。しかし,それならば,「・・・がなかったならば,・・・はなかった」で言うならば,第二次世界大戦は猫が原因なのだろうか。それとも,「そんなことをしても,ちっとも良くはならないのです」というだけのことで,タマ効果がなかったとしても,やはり,性格の違うHitler が(例えば,33人の御側女グループに囲まれた元気なHitler が),悲惨な戦争を引き起こしたのだろうか。いや,このような議論は無意味であろう。そもそも,「タマ震え」と言うときの「タマ」は徹頭徹尾単数形であり,複数形はないのだから。
飽きたので,このテーマは止めて「客観的」の検討に戻ることにする。
8.5 客観と集団幻覚
8.5.1 幻覚の芸者
幻覚というものが知られている。幻覚の場合,見たと確信していても,見たと思っているのはその人だけなので,見たという確信を維持し続けるのは,なかなか大変である。
集団幻覚というものもあるらしい。キャンプに行った十人が十人とも,夜空に「ねこじゃねこじゃ」を踊っている芸者の幻覚を見るのである。この場合も他の人に話すと,「ご冗談を」と一蹴されるのだが,十人の間では話が一致する。そして,「芸者さんは黄色いかんざしをしてたね」とか「足袋の裏がちょっと汚れてた」とか話しているうちに,記憶はますます詳細に矛盾を含まないように共有されてゆく。そうなると,「これほど詳細に見て,しかも,全員の記憶が一致しているのだから,絶対に真実だ」と確信は強まっていく。
さて,この集団幻覚がひとつの世界全体で,しかも何世代にもわたって生じた場合は?
しかも,「ひとつの世界全体で,何世代にわたって」という中に,我々より遙かに知能の優れた生き物も混じっているとしたら?
こうなると,あまりにも秩序だった幻覚の整合性は我々の理解を超え,幻覚の秩序は探求の対象となり,探求を続ければ続けるほど,「隠れた真実」を新たに発見し,その秩序の設計のすばらしさに感動することになる。幻覚と言っても,見上げたものである。屋根屋の芸者である。
8.5.2 大規模集団幻覚
もう一度十人の集団幻覚に戻って,このこぢんまりとした集団幻覚に「それは客観的な事実というものに反している故に幻覚である」と言ったとしよう。この場合の「客観的事実」だが,この台詞は,大規模集団幻覚から小規模集団幻覚へ浴びせることも出来るわけで,そうなると「幻覚」なのか「客観的事実」なのかを多数決で決める,と言っているようなものである。
もちろん,物理的な世界というものの秩序に一致しないということをもって「幻覚である」と言うことは可能だが,その「物理的な世界の秩序」というもの自体も含むという意味での「大規模集団幻覚」となると,厄介である。この場合でも,その大規模集団幻覚を作り出している脳が存在する客観的世界,というものを問うことは出来るだろが,「作り出している脳」などというもの自体,この「大規模集団幻覚」の中でのあり方からの類推に過ぎないと言うことも出来る。
あくまでも「客観的真実」というものを認め,「客観的真実ではないから幻覚である」と言うことは可能である。ただし,もはや「客観的」という言葉に本来の意味はなくなり,単に「真実」,「唯一の神の視点からの真実」とでもいったところか。
もうひとつの手は,幻覚と客観的真実の違いは初めから捨ててしまい,「共通の理解の範囲だけを問題とする」という見方をとることである。言い換えるならば,すべてを集団幻覚と言ってしまうようなものである。
ただし,集団幻覚と言ってもそれを共有する範囲があり,最も貧弱な集団幻覚では,一人にしか「共有」されず,しかも,そのひとりの中での異なる時点の自分とすら,まともに共有できず,自分の中でも矛盾してしまう。
最も優秀な集団幻覚ならば,ひとつの世界すべてで,すべての時間にわたって共有されるのだろうが,こうなると「ひとつの世界」というもの自身,逆に「その幻覚を共有するものにとっての全世界」であって,その外との関わりは理解不能なだけなのであろう。
8.5.3 神々への幻覚
それでは,人の世界と神々の世界のように,少しだけ重なっている場合は?
例えば,天の岩屋戸の着衣・非着衣の問題である。酒盛りのシーンだが,「あめのうずめのみこと」 はロシア風の衣装を着ていて周りを取り囲む男神どもはヌード,などという全く歓迎できない光景が正しい描写なのかというと,そうではない。神々には衣服も,その下の肌も,その内側の内臓も骨も,すべて同時に "見える" のであり,これが神々の世界の集団幻覚である。人の世界の集団幻覚では,見えるためには光が(光線,粒子,波とどのように解釈するにせよ光が)まっすぐに進み網膜に二次元の像を結んでくれる必要があるとしているので,衣服・肌・内臓が同時に見える世界は想像できない。まあ,それでも衣服を透視し皮膚を透視し,と都合良く順番に想像すれば見えたつもりにならないでもないが,神々の「見える」には,皮膚や服の裏地を身体の内側から眺める視点の「見える」も含まれるのであり,これはちょっと想像しづらい。要するに,人は3次元を見ているつもりでも実はそれを2次元に投影したものを見ているに過ぎないのだが,神々は3次元そのものの物体として見ることができるのである。人にとっては,キャラメルの包み紙のような2次元の網膜に物体を投影することが「見る」ということであり,神々にとっては,豆カンの寒天のようなものに物体の縮小版をコピーすることが「見る」ということなのであろう。これが神々の集団幻覚であり,したがってその姿も,この「見える」に則った姿をとっているはずである。このように神々は人とは異なる集団幻覚の世界にいるのであり,世界が異なる以上,神々は人には見えない方が普通なのである。
人が神々を知るためには,神形という,人の世界の集団幻覚における神の姿を作る必要がある。神形での神は,多くの場合,その土地のその時代の衣服をまとうことになる。それでは,非着衣ならば神々の集団幻覚の世界の姿かというと,もちろんそうではなく,それも神形である(⇐)。それでは,無理をして,内臓や骨格も同時に想像すれば? 残念ながら,それも神形である。
それでは,なぜ,「神というものは服など着ていない」と言うのか。それは,人の側の都合である。人の世界では,着衣に対して非着衣は,隠されものとしての,また装えないものとしての「本当の姿」という意味を持つ。従って,人の世界から神々の世界へ近づく過程では,結局は神形であっても,着衣型から非着衣型の神形に向かって進むことになる。したがって,天の岩屋戸事件の前後で非着衣型から着衣型に変わるという話も,あえて神形を作ってからそれを微かにしていくという,人が神々に近づこうとする過程を逆向きにして語っているに過ぎない。
それでは,その先は? こうなると,人の世界から離れるためには,手と足は二本ずつとか顔は一つとかの特徴も捨ててしまった方が良い。こうして,人とは違った姿の神を観想することになるのだが,これも神形ではある。(⇐)
8.5.4 目覚める
それでは,最優秀集団幻覚から「目覚める」ということは出来るものなのだろうか,また,「目覚めた」状態とはどのようなものなのだろうか。
仏教系インド趣味では,「目覚める」ことが可能であると言う。「目覚める」ための手段として,部分集団幻覚を用いることもあるし,また,神形を用いることもある。しかし,ここでの神形は,神々に近づくことが目的ではなく,人と神々その他をすべて含む最優秀集団幻覚から目覚めることが目的なので,神形そのものは似ていても働きは異なる。したがって,例えば,ダーキニーだと
- 元祖ダーキニー
- 仏教に感化されたダーキニー
- ダーキニーと同じ神形であるが働きの違うダーキニー
の三者,特に,前二者と後者は,区別すべきである(⇐)。
「仏教化したインドの神」という表現も,元祖インドの神が "仏教の味方" になったという意味で仏教化したと考えているのか,元祖インドの神と同じ神形をとっているというだけの「仏教の中での神」と考えているのか,注意が必要なのだ。
では,目覚めた状態はどのようなものか。
これは,あまりにも難しい。そもそも,言葉のひとつひとつまでが集団幻覚の秩序のなかで生じたものであり,考えようにも文字通り言葉もないのである。
というわけで,仏教系インド趣味は難解である。とりあえず,この問題からも逃げることにしよう。
さて,物語というものは幻覚を作ろうとする試みであり,良くできた物語は,ホビットをあちこち歩かせるだけでなく,きちんと秩序だったひとつの世界を作り上げる。壮大で整合性のある幻覚を展開して見せる目的は,それよりも遙かに壮大で整合性のある現実の世界の著者を讃えるためなのだろうか。
しかし,世界を集団幻覚と見ての「目覚めたいなあ」を背景とする物語では,部分的な「共通の理解」のみを整えて,全体としては矛盾している箇所があった方が幻覚らしくて望ましいのである。そのような実に深遠な理由により,ベルリンの壁が出てきたり,アメリカに言及されたり,アスファルトの道路があったりするのであり,これから穂高駅とか貸し自転車屋が登場したとしても,文句を言ってはいけないのです。