7.The Salon Orchard
サロン
戦争が始まる前の,懐かしく美しい時代のことです。Miss Orchard のサロンには,ずいぶん色々な人たちが顔を出したのですが,いつも来る人たちというと,Katz 伯,小鹿くん,安房守などの高貴な身分の騎士たち,勘太縁の司教さまと勘太くん,それからTabatha さんとクララさん,「おほげつひめ」 と「おほげつひめ」 についてくるナウシカ,「あめのうずめのみこと」 と「あめのうずめのみこと」 が無理矢理連れてくるカトリーナ姫,それからソーニャさんなどの理屈っぽいお嬢さんたち,このあたりでしょうか。サロンでは,どういう話しはして良くて,どういう話はいけないのかという,はっきりしたコードはなかったようです。真剣な話題に限らず,
「オーケストラで一番音痴なのは?」
「ホルン奏者!」
といった,たわいもない謎々とか,最近の女子校での「スカートの丈の校則」についての論評とか,要するにどうでも良いテーマで話が進んでいるかと思うと,いきなり「難解な哲学的議論」が始まったりします。
サロンというものの特徴は,「常識,偉そうに言えば教養,の共有」なのでしょう。
今となっては全く意味不明な謎々も,Tabatha サロンでの常識を背景としているらしいのです。Katz さんと安房さんは,Hornblower という名前の艦長が登場するお話が大好きだったのですが,Hornblower さんは歴戦の船乗りなのに,船酔いをするのです。と言っても,やはり謎々として意味不明であることに変わりはありません。まあ,何かというか,「来ちゃだめー!」から幼いナウシカを想起し,「ヨリさんヨリさん」には「私はユリ」を続ける程度のものだったのでしょう。
スカートの丈の議論は,「スカートの長さは,足下を猫が通り抜ける高さにすること」という,女子校の生徒手帳に記載された規則についての議論です。この話題は,「しっぽは猫に含まれない」,「スカートは,くるぶしまであるべきだ」,「ナウシカ風が正しい」,「いや,あれはスカートではない」とずいぶん話が弾んで延々と続いたのですが,最後には,「猫が体をこすりつけながら通り過ぎるのは大歓迎」というコメントに落ち着きかけました。ご婦人方もお嬢さんたちも,猫がスカートの下を通り抜けることには,なんの異議もなかったのです。ところが,「ねこが手鏡をしょっていたら」などという,現実性を欠く設定が提出され,こんどは,なぜそれは気持ち悪いのか,という分析が始まってしまいました。
そうかと思うと,「無常」の議論です。例えば,目の前にあるリンゴは,「常なるもの」ではありません。リンゴは「もの」だからです。リンゴは無常ですが,「リンゴという概念」は変わることはなく,無常ではありません。それを踏まえて,ソーニャさんは
沢は無常ではない。虚空である故に。山は沢により山であり,それ故にまた,無常ではない
などと言い出しました。心王区分の問答をする僧侶たちのまねをしてみたかったのです。
確かに,火山以外の山は,水が台地を削りとった残りの土(と岩)です。水が流れて土のない部分「沢」が出来て,沢はだんだん発達して大きくなり,沢の残りとして山ができます。だから,山は沢という「土が削り取られて無い部分」というものにより決まり,「無い部分」は「もの」ではないから,沢により決まる山も無常ではないという議論です。
ソーニャさんとTabatha さんは,けっこうまじめに議論をしています。クララとナウシカは,クッキーをとりに台所に行きました。Katz 伯は「あめのうずめのみこと」 の胸の谷間を見つめながら(胸が存在しない部分を見ているのだから失礼ではありません),自分なりに無常について考えています。安房守は「あめのうずめのみこと」 を見つめている Katz 伯のことを,おもしろそうに見ています。「あめのうずめのみこと」 は Katz 伯の視線に気づいて,いとも華麗にして妖艶なるほほえみを浮かべ,カトリーナはそんな「あめのうずめのみこと」 を見て怒っています。
ソーニャさんたちは,今度は「客観的存在と集団幻覚」と言うことについて議論をしています。勘太縁の司教さまは,そんな議論に加わる気は無く
,退屈しているようです。それに気づいて,おもてなしの心あふれる「あめのうずめのみこと」 は隣の部屋に行って,小さな枯れ木のかけらとマンドリンのような楽器を持ってきました。そして,暖炉に木のかけらを放り込んで,司教さまに言いました。
「とても良い匂いがするはずです。狐娘が西に行って,囓って持ってきてくれたんです」
そして,蘭奢待の香のなかでその楽器を弾き始めました。
---thrum---thrum---thrum---
そして他の人たちの邪魔にならないように,司教さまだけに聞こえる柔らかな小さな声で,歌うようにささやきかけたのです:
There never was such a world.
There never was any world but mine.
The Silver Chair (The Chronicles of Narnia Book 6)
不覚にも司教さまは,司教様にとっては魔女のような,と言うよりはサロメ(猿女)のような存在であるはずの「あめのうずめのみこと」 と視線を交わしてニッコリしてしまいました。
そして,笑い出してしまったのです。それは,ひとつには「幻聴,幻聴」と言われた深谷甚左右衛門さんのことを思い出したからであり,もうひとつ,「銀の椅子」の魔女 "The Lady of Green Kirtle" の魔術に完璧に嵌ってしまったのが日本人だったら,
There never was such a world.
とだめ押しの確認をする魔女に,力一杯 Yes! と答えてしまうだろうな,と想像したからなのです。
皆さんの議論は,まだ続いています。
窓の外の庭では,柿の木の枝に止まった雀が,箱座りをした牛を見つめています。「おほげつひめ」 は,この長閑な風景を眺めています。しばらくして,「おほげつひめ」 は言いました。
「牛は,緊張と緩和の緩和ですね。でも,気をつけて近づかないと,牛につぶされてしまいます」
雀の心配をしているのでしょうか。雀さんのことはともかく,「おほげつひめ」 の言っている「緩和」は,たぶん,あははっと笑うような軽いものでなく,世界が全部なくなってしまって,なにもない宇宙がどこまでも広がっているような,すごい「緩和」のことなのでしょう。山寺の猫和尚の説話にも「晴天の宇宙」というお題がありますし。
ソーニャさんたちの議論は,始まったときと同じように,いきなり終わりになりました。お茶とクッキーが出て,安房守は「お話」をしています。いつものサロンです。
7.1 健太くん
勘太川や勘太縁大聖堂という名前のもとになった,お馬乗りの勘太くんには,健太くんという弟がいました。
健太くんが七つになったとき,お兄さんの勘太はすでに,馬術では神童扱いされる程の腕前でした。しかし,健太くんは馬術にはあまり惹かれなかったのです。
健太くんが魅せられていたのは剣術です。
おそらく,どこかでフツの太刀を目指す修行者の稽古を見たのでしょう。健太くんはいつも棒きれを持ち歩き,稽古のつもりでそれを振っていました。
一方で,当時,フツの太刀を遣えるのは日の本に一人か二人,と言われていたくらいですから,七歳の健太くんでも,剣術の道の厳しさはよく分かっていたのです。
兄の勘太の後を追って馬術の道に進むことが,健太くんに用意された道でした。それでも,どうしても,剣術の道に入りたかったのです。しかし,兄が天才肌で自信満々であったのと対照的に,健太くんは色々と考え思い悩む性格だったのです。剣術に進みたいと兄と父に打ち明けるか,それとも,定められた道を進むか。健太くんは迷っていました。七歳にして,とにかく色々考え,起こりうる可能性に戸惑い,躊躇ってしまう性格だったのです。
夕方の海辺を木刀(棒きれです)をもって,考えごとをしながら歩いていました。そろそろ家に帰らないと叱られる時刻です。
健太くんの歩いて行く先に,ひとりの女の人が立っていました。けれどもそこは,満ちて行く潮がシュワシュワ言いながら到達点を少しずつ延ばし,黒く濡れた砂浜を残して引き上げて行く辺り,つまり,普通の大人の人ならば,足が濡れるのでぼーっと立った居たりしない波打ち際だったのです。これは健太くん辺りの年齢の子供に根拠なき仲間意識を持たせるに十分な設定だったようです。健太くんは,まだ遠くの灯りを背にこちらを向いているシルエットでしかない女の人に,すでに妙な親近感を抱いています。そばに行くと,それは今まで見たことがないほど美しいお姉さんでした。それでいて,ずっと前からよく知っているような,懐かしく頼りがいのありそうなお姉さん。
健太くんは,いきなり尋ねました。
「剣の道は険しいことはわかっています。でも,どうしても」
美しいお姉さんは言いました。
「なにも怖がることはありません。行きなさい,健太くん」
健太くんは,さよならを言って,家に帰るために砂浜を踏みしめながら歩いて行きました。そろそろ,灯りを灯す家が増えてきて,急いで帰らないと本当に暗くなってしまいます。海辺の家でチェロの練習をしているのが聞こえます。その重々しい旋律は,決心を固めて歩み出す健太くんの気持ちにぴったりです。健太くんは,フツの太刀の修行者となったのです。
二十五年間,健太くんは修行を続けました。そして,絶望しました。
フツの太刀に至ることが出来ないどころか,剣術では名人上手という境地にも届かないことがわかってきたのです。
健太くんは練習をサボったのでしょうか。そんなことはありません。人間ができる努力はすべて尽くして,練習を続けてきたと言っても良いでしょう。健太くんは,すさまじい努力で,例えば,あんまり眠くて稽古をしないで寝てしまいたいと思ったときなどは画鋲をほおに刺すなどして気持ちを奮い立たせ,稽古を続けたのです。怠けることもなく,手を抜くこともなく,文字通り己にむち打って稽古を続けたのです。稽古は苦しく,吐きそうになったり,心臓が破裂しそうな思いをするのですが,それでも,手を止めたい気持ちを意志の力でねじ伏せて,稽古を続けたのです。
何年も先の見えない修行を続けていると,何のためにそんなことをしているか,わからなくなってきます。健太くんは,そんな迷いを乗り越えるために,本当に真剣に道のことを考えました。健太くんが「剣術の道の意義」について考えたことを原稿用紙に全部書いていたならば,段ボール箱何杯になったでしょうか。
また,フツの太刀というものについても,よく考えました
(⇐)。
本当に,健太くんは努力したのです。それでも限界が見えてしまうというのは,なんと残酷なことなのでしょう。
これは,本当に残酷な現実です。
一方,カトリーナ姫はどうだったのでしょうか。カトリーナは努力などしたことがないのです。カトリーナは稽古が面白くてしょうがなかったのです。カトリーナだって,吐きそうになったり心臓が破れそうになったりします。しかし,カトリーナにとって,それはどれ程辛いものであっても単に辛いということに過ぎず,体の限界を伝える信号のようなものだったのです。カトリーナは稽古を続ける内に,これを越えると体が保たないという崖が見えるようになっていました。カトリーナは,この崖に近づきすぎると,手を止めて稽古を終わりにしたのです。カトリーナにとって「努力する」ということがあるとすれば,崖の縁を越えないという,このことだったのでしょう。
カトリーナはどんどん上手になり,この死の崖の縁から,一歩踏み出すことさえ出来るようになっていました。夜の稽古の終わりの方で,一声だけ,カトリーナのとても澄んだ鋭い声を聞くことが出来るのですが,死の崖っぷちを踏み越えて虚空に置かれた足を戻すためには,フツの太刀の名手カトリーナといえども,「裂帛の気合い」というものが必要だったのです。これは本当に危ない行為です。「あめのうずめのみこと」 としては,一緒にお風呂に入って,こちらの世界にしっかりと戻してやらないと心配だったのです。
しかし,健太くんのように,考えて,悩んで,葛藤をして,それを意志の力でねじ伏せて,といくら努力をしても,この崖を見ることすら出来なかったのです。
最後に,健太くんは,奥秩父の山にこもり激しい稽古に打ち込みましたが,それは限界を確認する作業になってしまいました。健太くんは絶望しました。今生で限界を越えることは出来ないのです。
健太くんは奥秩父の山の中を,ふらふらと彷徨いました。そして沢の枯れ滝の上に立って下を見下ろしましたが,それは武芸者が身を投げるには半端すぎる高さです。枯れ滝の下には,岩と言っても良いくらいの大きな石がたくさん在るのですが,半分以上土に埋まっていて,その上を土になりかけの湿った枯れ葉が覆い,さらにその上には落ちたばかりの葉っぱが乗っかっています。葉っぱの下では,小さな生き物たちが,健太くんの絶望などお構いなしに,いそいそと生きているのでしょう。健太くんは,枯れ滝の下に自分の死骸を想像してみました。裸の死骸は半分くらいは大きな動物たちに食べられていて・・・・・・えーと,描写するとだいぶおぞましいのですが,健太くんは嫌だなあという気はしなかったのです。強烈な臭いも,ありありと感じたのですが,それもまた嫌だなあという気持ちを引き起こすことはありません。むしろ,なんで裸なんだろうかという,どうで良いことが気になっていたのです。それを別にすれば,動物や虫たちの食べ物としてのこういう生き方(死に方というべきでしょう)も悪くないなあ,と思ったのですが,死を受け入れてしまうと,絶望は,今度は死の邪魔を始めたのです。たぶん,健太くんの絶望には,小さな怒りのようなものが混じっていたのでしょう。健太くんは枯れ滝に背を向けました。
すると,そこには,七歳のときに砂浜で出会った,美しい,あのとても美しいお姉さんが立っていました。
お姉さんというのは,ふさわしくないかも知れません。客観的に見るならば,健太くんの方が年上のようです。
でも,その人は「怖がることはありません」と言ってくれた,あのお姉さんなのです。その時とちっとも変わっていなくて,まったく同じなのだから,間違いありません。
健太くんは思わず,七歳の子供のように言いました。
「あのときのお姉さん」
「いいえ,私はお姉さんではありません。姫です」
この姫さまは,三十過ぎの健太くんにお姉さんと呼ばれて,ちょっと怒っているようです。
「でも,怖がることはないって言ってくれた人ですね」
「そうですよ,健太くん。健太くんは,本当によく頑張りました」
「わたしは,自分で決めて剣術を志したのだから,これでも良いのです。けれども,怖がることはない,ということは・・・・・・もしかしたら,まだ,極める可能性があるのでしょうか」
「いいえ,それはありません。健太くんは,本当にがんばりました」
あっさりと,絶望は承認されてしまいました。健太くんは,なんだかすがすがしい気持ちになりました。
しかし,「怖がることはない」ということの意味は,どうしても聞いておきたかったのです。
「怖がることはないというのは,これで良いということなのですか」
「そうです。これで良いのです。健太くんは,本当によく頑張りました。健太くんは一番難しいところを乗り越えたのです。後は簡単です」
「これから,どうすればよいのでしょう。これから修行を続けてもだめなのに」
「健太くんはよく頑張ったから,ご褒美をあげましょう。わたしが健太くんを生んであげます。そうすれば,こんどは簡単です」
「あめのうずめのみこと」(⇐)のこの言葉を聞いて,健太くんは,とても怖いことを思い出したのです。それは陰陽五行を逆の順番にして,死体から生き物を作り出すという,とても不気味な反時計回りの秘術です。
健太くんが恐怖に囚われるよりも早く,「あめのうずめのみこと」は,手のひらにのった枯れ葉をフッと吹き払うように,服を脱ぎ捨てました。
「あめのうずめのみこと」 の体は光を発しているかのような美しさです。その光は煩悩を焼き尽くす光,即ち「あめのうずめのみこと」 に向けられた以外のすべての煩悩を焼き尽くし,それどころかありとあらゆる思考や概念なども焼き尽くしてしまう,逆らいがたく美しい光だったのです。健太くんは,ふらふらと「あめのうずめのみこと」 に近づきました。「あめのうずめのみこと」 は健太くんの頭をしっかりと胸に抱きしめてから囁いたのですが,健太くんのすべての感覚は「あめのうずめのみこと」 のお胸に引きつけられていたので,そのささやきは健太くんの耳を素通りしてゆきました。
「そうですよ,健太くん。男の子にとっては逆の順番です。こうして派生用途に浸った後から本来用途に育てられるのです。だから,健太くんは女の子として生まれるのです」
健太くんは,なにも認識できないほど「あめのうずめのみこと」に夢中になって,そして「あめのうずめのみこと」 の体の中の火のように熱い小さな粒に触れて,そこに入ってゆきました。
健太くんは死にました。
「あめのうずめのみこと」 は,しばらくの間,葉っぱと一緒にきらきらと揺れている太陽の光を眺めたり,小枝に留まったカブトムシを見たりしていましたが,やがて立ち上がり,健太くんの死骸の足首をつかんで運んで行き,むぞうさに枯れ滝に投げ落としました。このようにしておくと,健太くんだった体は誰のじゃまにもならず,森の生き物たちを育ててくれるのです。
それから「あめのうずめのみこと」 は,いとおしそうにお腹をなぜながら,「健太くん」と呼びかけました。
7.2 誕生
健太くんは海にいました。体はあるのか無いのか,よくわからないのですが,息が出来ないということもなく海の中を自由に泳ぎ回ることが出来たのです。海に潜って水面を見上げると,光が波に揺らいでキラキラと輝いています。でも,水面から顔を出してみると,空に太陽はありません。太陽は無く,したがって青空も無いのですが,その代わりにどこまでも続く宇宙を見ることが出来ました。月はとても綺麗です。星は,星でないところを見つけるのが難しいほどに宇宙を埋め尽くしています。健太くんは,自分が健太くんだということも,ちゃんとわかっています。そして,この宇宙が,あの素敵なお姉さん,ではなくて姫さまの求肥のように柔らかなお腹の中にあって,あの強靱な筋肉でしっかりと守られているということもわかっていました。それは安心で艶めかしく,とてもすばらしいことなのです。
海の中にも空にも,他の生き物はいません。これは健太くんだけの宇宙です。
海の中をずっと潜ってゆくと海底があります。健太くんは,その海底のなかにも潜ってゆくことができました。どろどろの粘土のような海底をどんどん潜ってゆくと,やがて土はなくなり,まわりは全部岩です。大変な圧力のかかった堅い岩石です。それでも,どんどん潜ってゆくと,どろどろに溶けた真っ赤な,というよりは黄色に近い橙色に眩しく光る,熱々の溶岩の中まで潜ってゆくことになります。健太くんは,これが,あの小さな火の粒であることがわかっていました。ちゃんとした体はまだ無いので,熱くても火傷はしません。でも,健太くんは,いつまでもここに居てはいけないことを,知っていたのです。
健太くんは海に戻りました。月は明るく大きく,月のウサさんは月に守られて安心しきって眠っています。本当に,幸せな日々です。
健太くんの体は,少しずつ形になってきました。もう,海の中は泳げても,岩石に潜ってゆくことは出来ません。やがて,海の中では息ができなくなるのでしょう。それでも健太くんは,とても幸せでした。息が出来なくなる頃には,この宇宙から出て,あの優しい「姫さま」に育ててもらえるのですから。
けれども,健太くんは,だんだんとですが,「健太くん」とか「姫さま」とかがなんなのか,わからなくなっていたのです。そのうちに,「健太くん」という言葉も忘れてしまうのでしょう。
このようにして,「あめのうずめのみこと」 は「健太くん」を生んだのでした。「あめのうずめのみこと」 は神ですから,その出産は,ベテランの猫の出産のように,あっさりしたものです。「健太くん」は透き通るような肌の,とても美しい女の子として生まれました。ですから,もう「健太くん」というのは変なのですが,「あめのうずめのみこと」 は,授乳のお時間になると,
いつも,「けんちゃん」と呼びかけるのでした。
「けんちゃん。本来用途のお時間ですよ」
「あめのうずめのみこと」 は神ですから,というか,かなり変わった神ですから,普通の母親とは言うことが違います。しかし,その姿は,ラピスラズリ染めの粗末な衣を纏い真っ白なユリの花に囲まれて幼子を抱く"Liebfrau" のような,優しく美しい姿だったのです。
こうして一年と少しの間,「あめのうずめのみこと」 は柄にもなく母親を続けたのですが,ある日,あっさりとそれを止めてしまいます。
King Arthur は,そのとき傷心の父親でした。二歳になったばかりの次女カトリーナが急な病で死んでしまったのです。King Arthur は,どれほど悲しいときであっても王としての日常は崩したくなかったので,いつものように奥秩父に狩りに出かけました。そして,お付きの騎士達とはぐれてしまい,ひとり沢沿いに馬を進めていました。道に迷っているのに周囲の地形を見ようともせず馬のたてがみに目を落とし,しかしその視野を占めているのは,カトリーナと,それからカトリーナの母(つまり彼の妻のことです) の顔だけだったのです。
懐かしい気配を感じて目を上げた King Arthur が見たものは,まるで絵のようですが絵ではなく,けれども絵でないと言うにはあまりにも絵のような,「あめのうずめのみこと」 とその膝に抱かれた幼子(女の子です)の姿でした。
King Arthur は,どんなに驚いたことでしょうか。「あめのうずめのみこと」 の抱く幼子はカトリーナの生き写しだったのですから。
King Arthur は,この子を王女として育てさせて欲しいと頼みました。その申し出は,あっさりと,そしてなんの見返りも求めずに,受け入れられたのです。「いいよ」とただ一言です。母親は,カトリーナとして育てられることになった娘に向かって言いました。
「なにも怖がることはないよ。行きなさい,カトリーナ」
娘はとまどったようでしたが,King Arthur になにかを感じたのでしょうか,あっさりと母と別れて,King Arthur の馬に乗せられて行ってしまいました。
いくら昔の話だといっても,イギリス人というのも変なところがある人たちだといっても,これはあまりにも乱暴な展開です。しかし,カトリーナ(正確には2代目カトリーナ)も,King Arthur も,それから宮廷に戻ったKing Arthur から,この話を聞く初代カトリーナの若い母親も,みんなこの展開をあらかじめ決まっていたことのように受け入れ,なんの疑問も持たず納得してしまったのです。もうひとつ,King Arthur はこの時,「あめのうずめのみこと」 に会っているのですが,カトリーナに目を奪われて絶世の美女の「あめのうずめのみこと」 のことが全く意識にないのです。その証拠に,それから何年かして,「あめのうずめのみこと」 に紹介されるのですが,その時には,「世の中にこれほど魅力的なご婦人がいるものなのか!」と感心することになるのです。なにはともあれ,こうして,カトリーナ姫が誕生しました。
カトリーナ姫は,父と母の両方から,とてもかわいがられました。
けれども,確かに母親はとてもかわいがってくれたのですが,それでも,母親の愛情は,自然なものではあり得なかったのです。これはカトリーナには意識できないことでしたが,カトリーナが武芸に没頭し,結果として両親から離れて行ったのも,これがひとつの原因であったのかもしれません。
7.3 天の岩戸
安房守の長い長い「お話」は,ようやく終わりました。
「あめのうずめのみこと」 は「お話」が続いている間,ずっと笑ってはいけないと堪えていたのですが,「お話」が終わるとたまらなくなって,いきなり笑い出してしまいます。カトリーナは,戸惑いながらも我慢して聞いていたのですが,「あめのうずめのみこと」 が笑い出すと,安房守ではなく「あめのうずめのみこと」 に腹を立てています。このふたりのいつもの情景は,永遠に変わることはないのでしょう。
「あめのうずめのみこと」 は,いきなり勘太くんの背中をバーンと叩いて言いました。
「だいたい,君には弟はいないじゃないか!」
カトリーナ姫は,カトリーナ姫なりに一所懸命,主張しています。
「お父様もお母様も,わたしの本当のお父様とお母様です!それに,私だって,努力したんです!」
「あめのうずめのみこと」がすばやく割り込んできます。
「そうです!ベテランの猫のような出産だなんて,あり得ないのです。だいたい,私は処女です!」
何人かの例外を除いて,サロンの皆さんは必死に笑いを堪えています。おそらく,「あめのうずめのみこと」はカトリーナのまねをして主張してみせているだけなのでしょうが,確信が持てぬ以上,笑い出してしまったら失礼なのかも知れないのです。
例外は,小鹿君とソーニャさん,それからカトリーナと安房守です。小鹿君は「処女」という単語だけで顔を赤らめ,ソーニャさんは「神の処女性とは何なのだろうか」と考え始め,この2人については,それはそれで,お二人の性格そのものの反応であり,それが魅力でもあるのですが,「あめのうずめのみこと」の発言で自分の主張まで真剣な響を失ってしまったことに気づかず,しきりにうなずいているカトリーナ姫は,ちょっと「お間抜け」です。安房守が小鹿君に対抗して顔を赤らめているのは,謎としか言いようがありません。
さて,Katz 伯は,御主君と王女が冗談のようなお話の種にされたのに,平気な顔でニヤニヤしています。こういう,過激で手の込んだ冗談はイギリス人の好みに合うのでしょうか。
「日の本の神々を踏まえて語るのなら,誕生直前のシーンはこうしたらどうでしょうか」
今度はKatz 伯が話し始めました。
その頃になると海には波が出てきて,ところどころ白い塩の泡が浮かんでいました。空には太陽はなく,月はとても大きく見えます。太陽は宇宙の外です。私たちの世界では,月は太陽の光を反射する鏡のようなものに過ぎません。しかし,この世界では,月は自身の光を発しています。
眩しいくらいに明るい月の表面には,ウサさんの姿が浮かんでいます。このウサさんをじっと見ていると,ウサさんは,すっと月から離れて,光り輝く女性の姿に変わったのです。
「健太くん」には,記憶も言葉もほとんど無くなっていましたが,これが,あのときの「姫さま」であることが,すぐに分かりました。
その瞬間です。「健太くん」の正面の水平線が,視力を奪い尽くすような閃光を放ちました。そして,そこから,一本の焼き尽くすようなギラギラした光の筋が立ち上がります。扉の隙間が開いたのです。扉の向こうには恐ろしい太陽がいます。
恐れに打たれ「健太くん」は逃げようとします。けれども,鉛のように重い風に捉えられ逃げることが出来ません。扉の方に押し戻されてしまいます。扉はどんどん開いて行き,外は全部太陽です。「健太くん」は太陽に飲み込まれてしまいます。
「こんな所でしょうか? 向こう側に渡る死が衝撃であるように,誕生もまた,衝撃なのです」
Katz 伯は,ちょっと得意そうです。
「天の岩屋戸の内宇宙と言うならば,猿田彦も」
ここまで話したとき,Katz 伯は「あめのうずめのみこと」 のきつい視線に気付き,言葉を飲み込みました。「あめのうずめのみこと」 のこんな表情は,初めてです。安房守はテーブルの下で,「君,言い過ぎだぞ」という感じでKatz 伯の足を蹴りました。いくら寛容で無頓着な「あめのうずめのみこと」 でも,「天の岩戸」は露骨すぎたのでしょうか。サロンは緊張した空気に包まれます。
この張り詰めた空気も読まずに,例によって例のごとしの,しかしこの場合はとても頼もしかったのですが,「おほげつひめ」 の脈絡のない発言です。
「雀さんがつぶされたのは牛を見た後として,それでは,丸い井戸とか三角の井戸,四角い井戸,小さな井戸や大きな井戸を巡り歩いた井の中のかえるさんが破裂してしまったのは,牛を見た後だったのでしょうか。それとも,同時?」
小鹿くんが,おずおずと突っ込みます。「それは牛でなくて海!」
みんなホッとして笑い出し,「あめのうずめのみこと」 は小鹿くんを捕まえて,「コロちゃん,それでは突っ込みが弱すぎだよ。不合格!」,そう言いながら小鹿くんの口にクッキーを押し込んでいます。
サロンはいつもの雰囲気に戻りました。小鹿くんは,「あめのうずめのみこと」 に頭をヘッドロックのように抱きかかえられて頬が横乳に当たっているため,クッキーを噛むことも遠慮して,すべての動きを止めてじっとしています。カトリーナ姫は,いつものように「あめのうずめのみこと」 に腹を立てるのかと思うと,どうしたことでしょうか,ため息をついて顔を伏せてしまいました。
せっかく無難な会話に戻ることができていたのに,少し取り乱したソーニャが話を戻してしまいます。
「私,男の人が好きじゃないんです。だから,こういう話はカトリーナさんが汚れてしまうようで嫌です」
ソーニャは隠しているつもりでも,周りの人たちは,ソーニャがいつもカトリーナを見つめている視線に気付いていました。ソーニャがやたらに理屈っぽく話すのも,カトリーナが,論証を展開するソーニャを感心して見ているからなのでしょう。だからKatz 伯や安房守などの男どもは,「男の人は嫌い」と言われても反応せず,ご婦人方も「殿方に失礼ですよ」とたしなめることはしませんでした。カトリーナが「健太」と関連づけられてしまったことに,こんな告白に近いダイレクトな反応をしているのだから,保護モードのフォローが必要です。だからといって
「ソーニャさん,これは単なるお話ですよ」
などとは言いません。これではオーチャードサロンの自己否定です。お話のなかで発生した問題は,お話の世界の枠組みで解消すべきなのです。
サロンの面々はそれぞれ,どのように「お題」を解こうかと考え始めましたが,誰かがお題を解くよりも早く,気を取り直したカトリーナ御本人が非論理的な感想で答えたのです。
「そうすると野菜とかも食べられなくなってしまいそう」
ソーニャはうっかり「告白」をしてしまったことに気付いて狼狽していたのですが,カトリーナの無邪気な言葉にホッとして,すぐに論証の世界に退避しました:
「健太さんは記憶を全部失って,体も別の体になって生まれたわけですね。でも,死んでから別の生き物として生まれ変わるという転生との違いは,死ぬ前と生まれ変わった後の両方を知っている女性がいるということです。その女性だけではなくカブトムシも,つまり,木の枝から,その女性と健太さんが,・・・ えーと,・・・ 健太さんが死んだ後で小枝に留まっていたカブトムシも,」
ここまで言ったとき,なぜか頬を真っ赤に染めているソーニャを見て,「あめのうずめのみこと」 は笑いながら割り込んできました。
「カブトムシくんも,青い眼をたくさん持った虫として生んで欲しいなら,私ではなく別の方にお願いすべきでした」
「あめのうずめのみこと」 は「おほげつひめ」 にお願いしてるカブトムシと,それからカブトムシにお願いされて戸惑っている「おほげつひめ」を想像して,笑っています。
「おほげつひめ」 は,すまして答えました。
「青い眼がたくさんある虫は王蟲 ですね。それならば,Ameno・Uzmeno・Mikoto の受け持ち?」
いつもは脈絡のないことを言っているのに,めずらしいことに,そして,純和風の「おほげつひめ」 とは思えないことですが,これはちゃんとした冗談になっているのです。
ソーニャは無事に逃げ切れたと思って,目立たないようにしています。
「あめのうずめのみこと」 はどこからか,見たことのない酒を持ってきてみんなに勧めます。強い酒とは思えなかったのですが,サロンのみんなはすぐに正体を失ってしまいました。こんなことは,オーチャードサロンでは初めてです。その割には醒めるのも早く,一時間もしないうちに酔いは完全に抜けました。お茶を入れ直して,いかにもサロンらしい,上品な会話に戻っています。
「浜辺の家でチェロを弾いてたのは,エルガーのチェロコンでしょ?」
「そう。最初のところの旋律。あの曲は,なんといってもデュプレ」
「あめのうずめのみこと」 は,この手の話にはあまり口を挟まないのですが,めずらしく話に加わってきました。
「ジャックリーヌ・デュプレ! チェロを弾いている姿は,絶世の美人ですよね。とても手が届かない美しい姿!」
あごの先っぽのお肉が良く発育した典型的イギリス顔を「絶世の美人」だなんて,他の人が言ったなら,変わった好みだなあと思われるところですが,万人一致しての絶世の美女「あめのうずめのみこと」 が言うのですから,ちょっと考えさせられます。「あめのうずめのみこと」は,心底うらやましそうで,どことなく寂しげです。でも,「チェロを弾いている姿は」と,ちゃんと限定することは忘れていません。
Tabatha 婦人が言いました。
「エルガーの曲ですけど・・・・・・オーケストラなしでは寂しすぎます。音が寂しいんじゃなくて,健太さんがひとりぼっちで」
確かに,チェロパートだけでは,「絶望まで予約済み」という感じの曲です。どうしたことか,「あめのうずめのみこと」 は自分のことのように,むきなっています。
「そんなことない!ずっといっしょに居たのです。いつも一緒に居たのです。だから,ここ一番という時に姿を現すことが出来たのです」
「ずっと手のひらの上だった,ということですね」
Katz 伯が言いました。口には出さないけど,本当は「でもあなたの場合,手のひらじゃなくて」と考えていたのですが,突然,はっとして机の下で安房守の足を思いっきり蹴っ飛ばしました。
「安房くん,君なあ,奥秩父か!」
安房守は「さあ,どうでしょね」という風情で笑っています。「あめのうずめのみこと」 は,うれしそうに,ふたりを見ています。「こいつらは,他に考える事がないのか」という表情です,なぜ「うれしそうに」かと言うと,「こいつら二人,並べて埋めてやろうかしら。大きな土まんじゅうが二つ並べば,満足して埋まってるんでしょね,君たちは!」ということなのです。
なにはともあれ,しばらくデュプレの話題で盛り上がっていたのですが,
司教さまが Miss Orchard に気付いて,ちょっとあわてて言いました。
「カザルス の演奏もすばらしいですよ」
Miss Orchard はカザルス が大好きで,カザルス の名を冠したホールを計画していたのです。カザルスじいさまに,そのホールでずっと,ピースピースとさえずっていて欲しかったのです。
Miss Orchard は機嫌を直したようですが,ちょっとした反撃を試みます。
「浜辺で女の人に会うのは,デュプレのお芝居から持ってきたんでしょ?」
「そうですけど,そもそも音楽でも他の音楽を基にして展開していくのであって,例えば,シューベルトの野ばらは魔笛の旋律にそっくりですね」
この辺りまでは,サロン風だったのですが,安房守が,
「童は見たり,夜中の薔薇」
なんて言い出したため,またもや大人の人たちは,婉曲に表現しているようで,ちっとも婉曲になっていない,怪しげな会話を始めたのでした。
カトリーナは夜の稽古の時間になったので,宮廷に戻ることにしました。「あめのうずめのみこと」 は危ないから送っていくと言って,無理矢理ついて行きます。確かに,カトリーナひとりで帰したのでは,ならずものが絶滅危惧種になってしまいそうです。
クララは Katz 伯にエスコートされて帰って行きました。小鹿くんは,ふたりのじゃまにならないように,少ししてから帰りました。Miss Orchard は,後片付けはメイドに任せて,お風呂に入っています。
みんなそれぞれ,いつもどおりのサロンだったと思っているのですが,その頃になると,「あめのうずめのみこと」 の見慣れない酒を飲む前に交わされた会話を,まったく思い出せなくなっていたのです。
ただ,特にKatz 伯と安房守はそれから数日の間,「天の岩戸」という言葉に,なんだかすごい魅力を感じたのでした。
7.4 鏡よ鏡!
「あめのうずめのみこと」 にも,ごくまれにですが,一人になりたいときがあります。そのようなときには「うずめ神社」に行くのですが,もちろん,お参りに行くわけではありません。そこは「あめのうずめのみこと」の本宅のようなもの。
左右の狛犬さんの間を通ると「あめのうずめのみこと」 を祀った小さな祠があり,お賽銭箱が置いてあります。祠と2匹の狛犬さんは正三角形を作っていて,「あめのうずめのみこと」 と,それから彼女に阿吽の呼吸で絡む安房とKatz の三人組を思わせます。
お賽銭を捧げるときには,この三角形をきちんと意識しておくことが大事なのです。
祠の裏へ回ると,沢山の鳥居が並んだ細道があり,鳥居の作る獣道のようなその細道は,鬱蒼とした杜の奥へと続いています。昼間でも薄暗いのに,今は夜中。背の高い木々から月の光が僅かに差し込むだけ。微かな風が暗い空に溶け込む梢を揺らし,足音に引きつけられたのか小さな動物の目らしきものが光り・・・これは相当に「怖ろし」な情景のはずなのですが,そこはやはり主が主だけあって,実際にその小道を歩いてみれば,せっかくの「怖ろし」の設定はどことなく失敗作であることに気づくはずです。例えば「小さな目を光らす」のはモモンガーではなく,少なくとも狐にしておくべきだったのでしょう。いずれにせよ,そういう性格の方なのだから,「怖ろし」を狙うこと自体が無理なのですが。
この気味が悪いはずの鳥居の小道を通り抜けると,月の光を受けて玉砂利が白く輝く広場に出ます。その奥にアカシアの木に囲まれて,ログハウスのような造りの本殿が建っています。
「あめのうずめのみこと」 は本殿中央の,「入るな」と書かれた御札がドアに貼ってある彼女専用の「特別室」の真ん中で,ただ一人すっと背筋を伸ばして立っています。やはりそうなのでしょうがヌードではなく,異国の巫女さんか女神さまのような見慣れぬ装束を纏っています。「特別室」はなかなか落ち着いた雰囲気の趣味の良い作りなのですが,なんとも国籍不明。部屋の右手の壁には不思議な模様のタペストリーが掛けられていて,そのタペストリーに隠された階段を五段ほど降りると,そこにはちゃんとした純神社風の板張りの部屋があり,これもまた純日本風の装束を纏った神主さんが祝詞を上げる用意をしています。
祝詞は「掛けまくも畏き」から始まり,始まりは普通なのですが途中からは「姫つどいの姫」とか身勝手に展開する祝詞でした。祝詞が始まると,「あめのうずめのみこと」 の正面の空中に,ぴかぴかに磨き上げられた青銅製の鏡が現れ,祝詞が進むにつれ,それはしだいに薄く微かになってゆき,「かしこみかしこみまうさくー」の最後の音の余韻が消えてゆくと,「青銅製の鏡」の青銅も完全に消えてしまい「鏡というもの」だけが残ります。鏡は「あめのうずめのみこと」 の美しい顔を映しています。
ソーニャが居れば「ういちゃんの鏡」とか騒がしいでしょうが,幸いにも,ここには「あめのうずめのみこと」 ひとりしかいません。彼女は神ですから,この状態を壊すことなしに鏡に話しかけることが出来るのです。
「あめのうずめのみこと」 はしばらく考えているようでしたが,おそらく人モードの気持ちだったのでしょう。鏡をちゃんと実体のある青銅製の鏡に戻してから,その鏡に問いかけました。
「鏡よ鏡。世界で一番美しいのは誰?」
------ 鏡は答えます ------
「それは,私です」
「ん?」
「それは私です。見れば分かるでしょ」
「・・・・・・ああ,そういうことか。しかし,私は,そのような言葉の遊びには飽き飽きなのだ。もう一度だけ尋ねる。鏡よ鏡。世界で一番美しいのは誰?」
「それは,カトリーナです」
「なあ,鏡。カトリーナの名前を言えば私が機嫌を直すと思っているのか? それとも,あの子に毒りんごを持ってゆけと? 壊すぞ,鏡」
「まあ,恐ろしい。言葉だけはね。でも,カトリーナと言われたただけで,機嫌が直っているではないですか,この過保護ママ」
「何を言う。どこが過保護なのだ」
「今日だって帰り道もべったり付き添って」
「私がいなければ,あの子は人を切っていた。ごろつきどもが寄ってきても,あの子は刀に手をかけることすらしないのだ。威嚇もしない,無視をするという気配すら顕わさない。全く関心を払って居らず,しかし間合いに入れば切るだろう。私がいなければ,あの子は人殺しをしていたのだぞ」
「メイちゃん。良く聞くのです。ナウシカは風の谷を出てドルクの国まで行ったのです。
あなたの安房くんも言ってたでしょ。
あなたは,いつまでカトリーナを胸の谷に閉じ込めておくつもりなのですか?
」
「あなたの安房くんなどと,ぬけぬけと! あいつら二人は,健太やカトリーナではなく,胸の谷間の話をしたいだけだ」
「いいえ,メイちゃん,違います。あいつら二人ではありません。あなたの安房くんです。Katz さんはクララさんのものです,本人も気付いていないけど,Katz さんは動きのとれない安房さんの鏡になっているだけです。安房さんは,あなたがカトリーナから乳離れできるのを待っているのです」
「おまえは,いつからカウンセラーになったのだ。出過ぎたまねを」
「メイちゃん,そのような装束で覆っていても,あなたは美しいりんごの木。でも,カトリーナに必要なのは,毒りんごです。白雪姫が王子様と一緒になるためには,毒りんごが必要なのです」
「なにを訳の分からないことを言って! 人殺しをしないとカトリーナは子供を産めないというのか?」
「かわいそうにメイちゃん。そんなに取り乱して。マリア様のように幼子を抱くカトリーナを,お膝に乗せて見守りたいのですね。でも,あなたは聖アンナにはなれません。カトリーナは人を切って,人を殺す惨さを知るのです。その先は,カトリーナが決めることです」
「鏡,何を言うのだ。あの子が人殺しをするのを見ていろと言うのか?」
「まだ,そんなことを言って。見ていろとは言っていません。勇気を出すのです。勇気を出してカトリーナから離れなさい」
「・・・・・・」
「メイちゃん。勇気を出して」
「鏡よ・・・・・・私にはできない。カトリーナを人殺しにはできない。できるはずがないではないか。なあ,鏡,カトリーナが・・・鏡よ,カトリーナには,お前は人を殺すということが,どのような・・・
・・・もう良い。消えろ,鏡」
鏡は,凛とした表情の「あめのうずめのみこと」 の冷たく美しい顔を映したまま,消えて行きました。
人モードの「あめのうずめのみこと」 は,人モードどころか母モードですから,鏡の言葉は,ちょっと荷が重かったのです。
鏡が完全に消えたとき,
「あめのうずめのみこと」 は唇に変なしょっぱい味を感じ,自分の顔が涙と鼻水で,これでもかという程ぐちゃぐちゃになっていることに気付きました。偽りの姿を映していた鏡に腹を立て,粉々にたたき割ろうとしたのですが,鏡は,もう,そこには居ません。「あめのうずめのみこと」 は,真っ赤になってうつむいて,げんこつを握りしめ,肩は怒りで震えています。
しばらくして,「あめのうずめのみこと」 は,部屋をいくつか通り抜け縁側のようなところに出て,叱られた後の子供のようなぐちゃぐちゃのばっちい顔のまま,長いこと月を見上げていたのでした。
さて,映した映像はともかく,鏡の言うことが本当だとしたら,自分が作り出したお話で母親となった「あめのうずめのみこと」 が乳離れするのを待っているわけですから,「あなたの安房くん」も,ずいぶんややっこしい男です。