古江戸物語: 5.クララクエスト

6.クララクエスト

6.1 小鹿くん

クララがお嫁に行った Katz 伯には弟がいました。正式な名前は,

オクタビアンマリアエーレンライヒボナベントラフェルナンドヒアツィンス

という名前なのですが,長すぎます。あまりにも,長すぎます。名前の最後がヒアシンスですから,花のような美しい少年かと言うと,実際のところ,美しいと言えばとても美しいのですが,それよりなにより,老若男女,ついでに猫うさぎ羊モモンガを問わず哺乳類全般の保護本能を刺激してしまう「かわいらしさ」が特徴だったのです。しかし,「かわいい」とアメノヒコヒコ的な長い名前は相性が悪いのです。そこで,周りのみんなは

オクタビアン・・・中略・・・ヒアツィンス 君

のことを「小鹿こじかちゃん」と呼んでいました。まあ,こんな具合に周りの人たちは自分勝手に保護本能を燃え立たせていたのですが,それでは等の御本人はと言うと,そこはどうしてこの小鹿くんはなかなか勇敢にして武芸に優れ,ラテン語など当時必須のお勉強も軽々とこなす有能なお方でした。その上名門の出身であり,将来は必ず立派な騎士として名を称えられることになる・・・・・・はずだったのです。

しかし,小鹿くんは初陣であっけなく戦死してしまいます。戦争の初期で戦場はそれほど過酷なものではなかった・・・・・・はずなのですが,戦場はやはり戦場なのです。滅多にない偶然で流れ矢が顔を覆う甲冑のすきまをすり抜け,両目の間を打ち抜いてしまったのです。小鹿くんの周りの騎士たちは------信じられないことですが,椎名側の騎士たちまでも------それぞれ皆が「俺こそが小鹿ちゃんを守る」というつもりで見守っていたのに,小鹿くんはいきなり死んでしまいました。 確かに,これも戦争のひとつの姿なのですが,自分が死んだことに気付いていないかのような,その死に顔を囲んで,騎士たちは言葉もなく立ちすくんでいました。

Katz 伯も駆けつけてきました。 Katz 伯は言葉を発することもできず棒立ちで,視線は小鹿くんの額の矢に釘付けになっています。鉄の円盤が頭に落ちてきたようなショックを受けていたのです。

両陣営の騎士たちは,あの避けられない作業を Katz伯が行うのを,静かに待っています。この作業は[動作としては]簡単なのですが,この作業を成し遂げるのは本当につらいお仕事なのです。King Arther の騎士 Katz は,子鹿君の額に手を置き地面に押しつけ,矢尻をそっと,しかし,力をこめて握りました。もう痛みは感じないはずなのですが,子鹿君の二つの眼は,少し驚いたような表情でこちらを見つめています。

騎士としての鍛錬が鍛えた心,この場合はこれが頼りになるのです。静かに,しかし躊躇うことなしに,ゆっくりと矢を引き抜きました。額には,冥府の入り口のような,何処までも続く深い穴が口を開けています。椎名側の騎士が,額に鉢巻きのような布を巻き付けて,その穴を隠してやりました。

作業を終えて,Katz伯は子鹿君を見つめています。額に赤い鉢巻きを締めて,子鹿君はこれからお祭りに行くかのような顔をしています。視線は子鹿君の死に顔(これを死に顔と言って良いのでしょうか)に釘付けですが,そのとき Katz 伯の心を占領していたのは,小鹿くんの母(Katz 伯の母でもあるはずです)の顔でした。これから,彼女を殺すに等しいこの現実を伝えなければならないのです。Katz が彼女の部屋の扉を開けたその時から,子鹿君の母に残させた生涯は,額に開いた黒い穴の前に座りその冷気に浸って死の迎えが来るのを待ち続ける,それだけのものとなるのでしょう。

やっとの思いで立ち上がり,子鹿君の母,しつこいようですが Katz伯の母でもあるのですが,母の待つ家に戻るために歩き始めました。

クララの声が,戦場には居ないはずのクララの声が聞こえたような気がしました。けれども,Katz伯は不機嫌そうに顔を背けたのです。母をひとりにする「お仕事」は,ひとりだけで成し遂げなければならないのです。

今まで何遍も開けてきた母の居室の扉をもう一度開けて,Katz 伯はお仕事を成し遂げました。

そのときKatz 伯は,生きているということはこれ程つらいことなのか,今が一生の内で一番つらい時なのだ思ったのですが,しばらくして,彼にとってもっと辛い経験があることを思い知らされます。

そうですね,Katz 伯の妻クララが殺されるのです。

6.2 きつね娘

クララの埋葬が終わるまでは,Katz 伯にとって,クララがいなくなったということは,とんでもなく悲しい経験でした。しかし,埋葬も終わって,「悲しむ」ということと,「もう一度会いたいとむなしく願う」ということ,「クララのことを思い出す」ということを繰り返していると,「悲しむ」ということも「願う」ということも「思い出す」ということも,その辛さが,だんだん弱まってきます。これは生き物の心の治癒過程であり,辛さが弱まるのだから歓迎すべきことのはずですが,Katz 伯の場合,そうはいかなかったのです。

生きているうちのクララとお別れをすることも出来ずに,いきなりクララが死んでしまったこと,それから,小鹿くんの母(本当にしつこくて済みませんが,彼女はKatz 伯の母でもあったはずです)から小鹿くんを失わせたことの罰を受けたように感じていたこと,このことがKatz 伯を深いところで打ちのめしていたのです。彼は「悲しむ」,「願う」,「思い出す」が弱まっていくことに,「クララでない他のこと」についての彼の心を壊してしまうことで応じたのです。

Katz 伯は戦場にも出ずに,辺りをさまよい歩きました。いくら荒野を彷徨ったところで,リヤ王のような文才があるわけではなく・・・・・・そう,文才があるのはリヤ王ではなく「リヤ王」の作者だという点は置いておくことにして,兎に角・・・・・・気の利いたシャウトは出てきません。ぎらぎらした目で,「おれにも早く死を」とか,月並みな台詞をぶつぶつ言いながら歩きまわることしかできません。

その頃は戦争は,かなりえげつないものになっていたので,椎名側の兵と遭遇して落ち武者狩りのように集団で斬りつけられることもありました。しかし,なんといっても本職の騎士です。体に染み込んだ武芸で返り討ちにしてしまいます。こういった斬り合いも,彼の心を高揚させることはないのです。怒りや憎しみを燃え上がらすこともできませんでした。

そのように彷徨っていたある夜,うち捨てられたような神社の鳥居を蹴っ飛ばしていると,狐娘が現れました。

「こんばんは,Katz さん」

「こんばんは,お嬢さん」

あれほど正気を失ったすさみきった危険な男として振る舞っていたのに,騎士の悲しさで,女性にはきちんと挨拶を返しています。しかも,狐ですから服は着ていないのですが,狐娘の目をきちんと見て話をしているのです。ごく自然に。しかし,これは西洋の騎士としての正式な姿ではありません。ちゃんとした騎士ならば,「胸元に視線を向けたいけど,それはマナーに反するから目を見ているのです」という可愛らしい緊張と葛藤を,気取った表情の内にさりげなく漂わせているはずです。なのに Katz 伯のこの怪しからん無関心は,死せるクララ故とはいうものの,西洋の騎士としてはどうなのでしょうか。

「Katz さん,御主君も死んでしまいましたね。御主君はアルジュナのような諦観で死にました」

「アルジュナ?」

「ええ,おろちを連れていない方のインドのアルジュナ」

「ああ,話を聞いたことはあります」

「御主君は死んでしまいましたけど,Katz さん,あなたは?」

「そう,幸運な王と違って,私はすでに逝ったものではないのです。未だ逝っていないものだとも言い切れず,逝きつつあるものかというと,それもどうなのでしょうか」

「えーと,えーと私は議論は好きではありません。おろちを連れたアルジュナ様を呼んできましょうか? でも,Katz さん,あなたは?」

Katz 伯にとって,こんな脈絡のない会話は本当にどうでもよかったのです。でも,狐娘の声は,そしてKatz 伯が見ていないはずの狐娘の胸元は,Katz 伯のぐちゃぐちゃになってしまった心を,妙に鎮めてくれるものだったのです。

しばらくしてから,Katz 伯は囁くような小さな声で言いました。

「もう一度,もう一度だけで良いから,この腕にクララを抱きしめたい」

狐娘は,ちょと黙ってシッポを静かにゆっくり動かしていて,それから,少し小さい声で言いました。

「クララを抱きしめたいのですね。みんなと一緒に?」

Katz 伯はイラッとしました。そして,乱暴な言葉を出さないように,黙っていることにしました。

「Katz さん,みんなと一緒にクララを抱きしめたいなら,墓地の棺の中にクララはいます。腐ってますけど」

イラッとか怒りを通り越して,目眩がしてきます。

「ああ,みんなと一緒に,ではないのですね。  それでは,私と一緒に?」

Katz 伯は観念しました。これはもう,とことんまじめに答えるしかないのでしょう。

「いいえ,あなたと一緒にではなく,わたしがわたしのクララを抱きしめたいのです」

「そうですか。それでは,あなたは一人でクララを探すのです」

Katz 伯は驚きました。そもそも,狐娘相手に本気で会話をしていること自体どうかと思いますが,Katz 伯ときたら,狐娘の言葉を疑うことなく受け止めているのです。

「クララに会えるのですか! 本当に?」

「ええ,本当に。でも,クララを抱きしめても振り向いてはいけません。振り向いて確かめるという行為は,みんなと一緒に,ということです。ですから,振り向いてしまうなら,クララは腐っていて臭います」

Katz 伯は,「ええ,本当に」であんまり喜んだので,その後の変な台詞の変なところはどうでも良かったのです。

「クララに会えるのですね! それがどれほど困難な道であっても,クララを探しに行きます。クララに会えるのですね」

「ええ,Katz さんはクララに会えます」

狐娘は,一昔前の英語の教科書のような受け答えです。

「クララはどこにいるのですか? 金毛の狐のお嬢さん,御存知なのですね!」

「ええ,私はあなたのクララさんがどこにいるか知っています。しかし,Katz さんは,ひとりでクララさんを探さなければいけません。私が,クララさんがどこにいるか教えるならば,それは私といっしょに抱きしめるクララさんです。それでよろしいなら簡単です。わたしがクララに成ります。それとも,私がクララを生んであげましょうか?」

Katz 伯はすっかり生き返っています。狐娘の訳のわからない言い回しは全く気になりません。騎士はもともと困難なクエストが好きなのです。自分一人で探すのも悪くありません。一生かけてでも。

「ありがとう。娘さん。どんな困難があったとしても,地の果てまでも探すでしょう」

「いいえ,遠くではありません。気付かないところです。さようなら,誘いに乗らない格好いい騎士様」

狐娘は消えてしまいました。

こうして,Katz 伯のクララクエストが始まりました。

6.3 黄泉の国

手鏡を片手に

Katz 伯は意気揚々とクエストを開始したのですが,すぐに,それが途方もなく難しいクエストであることに気付きました。

いったいどこを探せばよいのでしょう。最初は,あてもなく,戦争で荒れ果てた古江戸中を探し回りました。その途中で,何遍も壮絶な斬り合いを余儀なくされ,それはなかなかにクエストらしき風情のものではあったのですが,だからといって「あてもなく探す」という行為は,そう長く続けられるものではないのです。

色々と考えました。「そんなに遠くではない気付かないところ」

そのうちに,とても嫌な可能性が見えてきました。もしかして,ご婦人のスカートの中まで探さなければならないとしたら!

手鏡片手に古江戸の町を歩き回るなんて,騎士として考えられない恥ずかしい行為です。クララに会うためなら,騎士の名誉だって捨ててしまっても構わないのです。しかし,そんなことまでしても,そこにクララが居ないことがわかるだけかも知れないのです。もし見咎められたとして, クララを探していたのです

などと言うのは恥ずかしすぎます。見咎められたら,いっそのこと,色情に狂っているという設定にしてしまいましょうか。

Katz 伯はスカートの中という可能性を排除することにしました。きつね娘は「気付かないところ」とは言ったけど,「探してはいけないところ」と言ったわけではなく,また,騎士の直感で,「きつね娘はそんないじわるなクエストを与える娘さんではない」と確信していたからです。なによりも,当時のスカートは(と言うか kirtle は)手鏡で覗けるほど短くなかったのです。

Katz 伯は宮廷に戻って,台所のなべのふたをとったり,クッションを裏返したり,ランプをひっくり返してみたりと,そこらじゅうを探し回りました。ああ,何と言うことでしょうか。クララさんはカブトムシやモモンガではないのですから,そんなところを探しても見つかるわけはないのに。宮廷のみんなは,Katz 伯が狂ってしまったと思いました。王は死に,その円卓の騎士は正気を失ってしまったのです。何という悲劇でしょう。

それでも,Katz 伯の心の景色は,だいぶましな状態には成っていたのです。狐娘に会う前が,ペットボトルにコーヒー牛乳を半分入れて,ふたをして振り回したような,濁ってただ荒れている感じとすれば,今の状態は,コーヒー牛乳ではなく透明な炭酸水が半分入ったペットボトルを振り回している,と言うくらいのものです。

井戸に写る星

ずいぶん長いこと探し回ったのですが,とうとう,Katz 伯はむやみに探し回ることに疲れ果て,じっと座って考え始めました。Katz さんのことですから,考えるとは言っても,それは頭脳の負担になる作業といった類いのものではなく,考えれば考えるほど頭が休まる「考える」だったのですが,そうしているうちに,昔読んだヨブ記の解説書にあった「井戸に映る昼間の星」の話が浮かび上がってきたのです。それは「深い井戸の底の真っ暗な水面は,真昼でも星を映すことができる」という話です。星は,昼間の空にも "在る"のですが,昼間の明るさにより星は見えないのです。Katz 伯の心は,渦巻きながら吸い込まれて行く水のように,井戸の底の星の周りをぐるぐる回りながら,そこに引き寄せられて行きました。

Katz 伯は井戸を探してはのぞき込みました。クララを探しているのか,星を探しているのか,冷静に考えてみるとよく分からない行動ですが,その意味ではKatz 伯は正気を失っていたと言えそうです。井戸を探して歩き回っているうちに,Katz 伯は「クララを抱きしめたい」ということが,いったいなにを意味しているのか,だんだんわからなくなってきました。抱きしめた感触? 体温? クララの体重?(失礼な!) クララに会えたなら話したいことはいくらでもあるけれど,それでは話す内容が重要なのか,それとも声を聞きたいのか。どれも魅力は十分なのですが,Katz さんが本当に抱きしめたいのは,クララが腕の中に存在するという,その存在そのものでは?それでは,クララがまだ生きていて一緒に居ることが出来た日々で,クララが一番存在していたのは? Katz 伯はひさしぶりに艶めかしい思い出に浸ることができ,それはそれなりに幸せではあったのですが,気がつくと,それは「存在」とは少し違うのです。クララが一番存在していたとき・・・・・

などと考えながらも,井戸を探し続けたのですが,見つかりません。そもそも,何を見つけようとしていたのでしょうか。井戸の底に星が見えたとしても,それからどうすればよいのでしょうか。

幸か不幸か,井戸を片っ端からのぞき込んでも星が見えることはなく,Katz 伯はほとんどなにをしているのかわからない状態で,もう一度,宮殿に戻ってきました。しかし,宮殿に入って知り合いに会うのも煩わしく,宮殿の裏手に歩いて行きました。

宮殿の裏には,リンゴの木がたくさん並んだ果樹園があります。北の方までずっと続く果樹園と建物の間に,ストーブの灰を捨てたり,道具小屋に入らない猫車とかの大きな道具を放り出しておいたりする,あまり人の来ない空き地があります。Katz 伯は子供の頃,一人になりたいとき良くここに来て,遊ぶでもなく時間を過ごしていました。ここは,お気に入りの場所だったのです。

地面は相変わらず,灰で真っ白です。そのとき,とても古くて朽ち果てた煉瓦造りの物置が在ることに気付きました。なんなのでしょうか。小さいときからよく知っている場所で,そんなものが在れば絶対に探検をして覚えているはずです。でも,そんな記憶はありません。 気付かない身近なところ

Katz 伯にとって,もう,ここがそれだということは,あたりまえの事実となっていました。

あまりにも当たり前の展開なので心臓がドキドキすることもなく,物置の中に入って行きます。

物置の天井はぼろぼろで穴が開いていて,空が見えるところもあります。 赤煉瓦の壁で囲まれ赤っぽい淡い光に満たされた物置の中にはなにも道具はなく,まんなかに井戸があります。井戸の底を覗き込むと,真っ暗な底に星がひとつだけ見えています。

クララクエストの新しいステージが始まります。Katz 伯は,井戸の縁の石のでこぼこと,切れかかってはいるのですが,未だしぶとくぶら下がっている綱を上手く使って,井戸の底へ降りて行きました。

井戸はとてつもなく深く,なかなか底に着きません。どれだけ降りたかわからないのですが,底が近づいてくると,井戸はどんどん広くなり,壁面は,垂直壁どころか覆い被さるような壁になっています。遙か下に見える真っ暗な水面は広く,どこまで続くかわからないほどです。Katz 伯はどっかぶりの壁を降りるのが面倒になり(本当は腕が限界だっためですが),飛び降りました。

Katz 伯が尻餅をついているのは,水の中ではなく水際でした。真っ暗です。井戸の底の水面は湖のように広がっていて,Katz さんが尻餅をついている所のすぐ近くに,小舟が繋がれています。

冷静に考えれば,変なのです。井戸の底に地下の空洞と湖が広がっていることくらいなら,まあ良いとしても,真っ暗ならば,「どこまでも広がっている」とか「小舟が繋がれている」とか,わかるはずがないのです。しかし,Katz さんは,まったく気にしません。綱をほどいて小舟に乗り,湖に漕ぎ出します。

湖は夜の世界でした。霧がかかっていて,舟のほんの近くしか見えません。Katz さんはなにも考えていません。心臓がドキドキすることもなく,次の展開を期待することも恐れることもなく,ゆっくりと船をこいでゆきます。水面から櫂を静かに引き抜く音,舳先に運ぶ櫂からしたたる水滴の音,そして飛沫を上げることもなく再び水面に沈む櫂の音,それ以外は何も聞こえない霧の中を,どこまでもどこまでも漕いで行きます。

ずいぶん漕いだのですが,霧に覆われた夜の湖は続きます。どこまでもどこまでも,変わることなく続く霧の湖。どこまでで続くのか,どこへ向かっているのか,何もわからないのですが, Katz さんは何も考えずに漕ぎ続けます。

やっと "向こう岸" に着いたらしく,舟は砂浜に乗り上げました。

クララ

Katz さんは舟を降りて,砂浜に座って湖を見ています。静かな落ち着いた世界です。水面は波ひとつ無く鏡のように真っ直ぐで,霧ははれてどこまでも見透せます(見透せても,なにもないのですが)。Katz さんの心臓も,本を読んでいるマダムの横をそっと歩くメイドさんの足音のように,静かです。心の景色も,炭酸水を入れてふたを閉めたペットボトルのような緊張はなく,ランプの明かりの下に置かれたガラスコップの水のように,静かにランプの光を映しています。

鼓動を乱すこともなく,Katz さんは考えることが出来ました。

「クララの存在」

クララが死んでから,数え切れないほど何回も,クララとの色々な場面を思い出して来たのですが,このときになって始めて,クララが一番存在した瞬間を思い出したのです。

それは,クララに出会ってまだそれ程でもない頃の,でもKatz 伯としては密かにクララが良くてたまらなかった頃の,ある夜のことです。宮殿の屋上でクララ!クララ! とクララで一杯の気持ちで彷徨っていると,屋上にある塔のひとつから,クララが出てきたのです。その頃クララは天文部に入っていたので,たぶん天体観測でもしていたのでしょう。屋上でKatz 伯はクララとすれ違いました。心臓は破れそうにバクバクしていたのですが,騎士ですから,礼儀正しく一礼をしてすれ違うだけで終わるはずでした。

そのとき,城門のあたりで言い争う声が聞こえました。騎士としての心得で,平時であっても争いは敵襲の可能性をみて確認すべきです。Katz 伯は,すぐに屋上庭園の端まで行って,下をのぞき込みました。クララは 「単なる好奇心で」 Katz さんの隣に行って,下をのぞき込みました。そのとき,Katz 伯の右手の小指に,クララの手が触れたのです。King Arthur の円卓の騎士Katz の体に電流が走りました。クララに触れたのは,ほんのちょっとの部分なのに,それは衝撃であると同時に,クララの全身が存在するということの実感でした。クララの存在は,熱湯に触れて熱いとか氷に触って冷たいとかと同じで,直接の実感だったのです。それからクララと過ごした年月も含めて,あの時間こそが,小者たちの諍いをながめている風情のクララが横にいた,あの時間こそが,クララの存在だったのです。

今の Katz には,その時を思い出しても悲しみも苦悩も現れず,なんだか満ち足りた幸せなような気持ちで座っています。

水面は波ひとつ無く鏡のように平らに広がり,透き通った夜の世界はどこまでも見透せます。物音ひとつしない,と言うよりは(それでは耳鳴りが聞こえそうですから),何千年か前に響かせた鈴の音の微かな響が消えていく,という情景です。見えない輪が遠くの水面のちょっと上に現れ,その輪はすごい速さで回転しています。そして,回転する輪は,だんだん細く微かになり消えてゆきます。聞こえない鈴の響きは,輪の消えたところで響いているのです。

どれほどの時間が経ったのでしょうか。

背中の方のずっと遠くから微かに,酔っ払い共が肩を組んで唱っている声が聞こえてきます。いつものことですが,牛込から出てきた足軽連中なのでしょう。 「あつまりさんじてひとらーかわれど」

そのとき,突然,あの時と同じ電流が走りました。

そして,Katz は,はっきりと感じたのです。

「クララはとなりに座っている」

クララは存在しているのです。探し求めていたクララの存在です。

Katz はなにも考えず,また,考えなくてもわかりました。

クララはとなりにいること。あの夜と同じ懐かしい kirtle をまとったクララが Katz の右隣に居ること。ここには Katz とクララがいること。そして,振り向いてクララを確かめようとすることは,別の時間の自分という「みんな」と一緒の視点を求めること。

もちろん,Katz には,「クララは私の心の中にいる」などという,つまらない言い回しは浮かびません。そんな台詞は,今ここにいる,この瞬間のクララの存在を,みんなに説明しようとすると出てくる台詞です。

クララは,そこに居るのです。そして,クララはそこに居る,というクララの存在だけでなく,クララの体の温かさも,クララの声という存在もそこに在ります。

「振り向いたりしたら,めっ! おみみペチンですよ」

優しく懐かしいクララの声です。

Katz はなにも考えていません。ただ,その時に浸っていました。

しばらくして,Katz は言いました。

「ありがとう。きつねむすめさん」

クララも,きつね娘さんを,ほほえみを浮かべて見ています。

Katz は本当に騎士らしい自信に満ちた表情で,狐娘に言いました。

「もう,振り返ってもだいじょうぶです」

それから,Katz は右側に顔を向け,静かに,優しく,とても優しく砂浜をなぜました。

「ありがとう,きつね娘さん」

Katz は立ち上がり,お辞儀をしてから言いました。

「さようなら。クララと一緒に行きます」

「さようなら。誘いに乗らなかった格好いい騎士さん」

6.4 八岐おろち

辺りを見回すと, どうやらそこは,品川の砂浜のようです。

Katz 伯は騎士の務めをはたすため,五反田に帰って行きました。

宮廷の騎士たちは喜びました。正気を失ったKatz 伯が,以前にも増して頼りがいのある騎士の姿で戻ってきたのですから。

絶滅戦争の救いようのない戦いは,Katz 伯の周りの騎士たちに関する限り,誇り高き騎士の戦いに戻りました。

戦いの中で騎士たちは,つぎつぎに死んでゆきました。しかし,それは騎士としての死であり,Katz 伯の帰還は,King Arthur の騎士達の物語を,騎士に相応しい物語として完結させたのです。

Katz はここでも生き残りました。

もう,騎士として奉仕すべき対象は残っていなかったので,Katz は古江戸を去ることにしました。このことが MalNotch からも命を救うことになるのです。Katz は騎士の保護本能により,高田馬場の僧侶たちの守護騎士のような立場になってしまい,彼らと一緒に,西の山地を目指して落ち延びてゆきました。

ずっと後のことですが,Katz は僧侶たちから八つの頭をもつ大蛇について学びます。そして,無等むとう八不はっぷという名の入浴剤と八つのたらいと,それから「顎湯はいかが? 首の疲れがとれますよ」と書いた看板を使った計略,後の世に「八八観待の計略」として知られることになる計略により,八岐おろちの八つの頭を切り落とし,八つの飾りと智慧の宝剣を手にします。しかし,これは古江戸物語から外れますので,このあたりにしておきましょう。