9.それぞれの終わり
安房守
シュタイナーの双眼鏡を手に安房守は,海軍総監として指揮を執っていた旗艦のデッキから,敵将 Katz の率いる部隊が包囲され全滅する様子を見ていました。安房守は親友 Katz の死を確信しました。ホームスとワトソン,ラティーとモール,ヒギンズとピカリング,いかにもイギリスらしい2人の大人のくつろいだ時間は,二度と戻って来ません。Katz 伯を偲んで,安房守は Katz Auer と名乗ることにしました。
MalNotch が作動したときには,安房守は椎名陣営最後の軍艦「浜松」を指揮して外洋にいました。古江戸が全滅したことを聞いて湾の途中まで戻ったのですが,もはや何も出来ないことは明らかでした。湾に注ぎ込む利根川の河口(今の江戸川のあたりでしょうか)は,黄色い煙に覆われています。ここからでも,五反田の宮殿や勘太縁大聖堂の塔が見えるはずですが,そこには何もありません。火事で焼けなかった木造の家々は,そのまま残っているようですが,石やレンガで作られた建物は,全部崩れてしまっています。人間が死ぬよりも早く,建物の壁に斑点が広がり,そして表面から砂のように崩れていったのです。
あの丘の向こうに Miss Orchard のサロンがあったはずです。サロンの建物も,そして,建築中だったカザルスホールも崩れてしまったのでしょう。安房守は指揮官の任務を忘れて,感傷的になっています。
勇敢な部下がボートに乗って上陸を試みますが,途中であわてて引き返してきます。しかし,艦に辿り着く前に次々とボートに突っ伏し死んでゆきます。安房守は,助けに行こうとボートを下ろす部下を止め,艦を外洋に戻すよう命じました。
安全な外洋に戻りましたが,すべきことは何も残されていません。「敵」というものが残されているならば,部下と共に,巡洋艦ユリシーズのように神風攻撃をかけて死に場所を得ることも出来るのですが,「敵」すらも残されていません。安房守と彼の部下達に残されているのは,無意味な争いの果ての光景と,戦前の美しい古江戸の記憶だけです。
もはや,指揮官としての立場も,意味がなくなっています。乗員全員で相談をして,二日後,彼らは決めました。艦と乗員全員の命を犠牲として捧げ,この地が再び繁栄しそして再び無意味な戦争の危機を迎えたときに,よみがえってそれを阻止しようと誓ったのです。
甲板に集まり静かに刀を抜いたとき,雷のような轟音と共に,舷側に巨大な姿が現れました。安房守は,カトリーナから聞いた大天使メタトロンのことを思い出しました。それ程に,大きく,恐ろしい姿だったのです。それは言いました。
「汝らの犠牲は受け入れられない。戦いのためになら,ひとつになって命を捧げることもできようが,誓いのための犠牲はひとりで払わなければならない」
「いいえ,これはひとりで払う犠牲です。我々は,同じ気持ちで,ひとりひとりが己の命を犠牲として捧げて誓うのです。」
「ひとりで決断して,ひとりで犠牲を捧げなければ,誓いは成就しないのである」
わざとらしい,ぎこちない大げさな言い回しをしていますが,安房守はそれが誰なのか,なんとなくですが分かってきました。安房守の声は,もう指揮官の声ではありません。
「怒っていらっしゃるのですね」
「安房くん,違う!違うよ!」
たわいもなく,もとの姿に戻ってしまい,手すりの上に立っています。
「怒ってなんかいないよ,安房くん。同じ気持ちだと思っていても,そういうものではないのです。だから,安房くんにしか話しかけられないし,すぐにカトリーナのところに戻らなければならないから,良く聞いてね」
「わかりました。わたしの姫さま」
「ふざけてないで,良く聞くのです。まだすべきことがあるなら,どんなに時間がかかっても全部済ませるのです。それから,もう一度よく考えて,安房くんの誓いになんの迷いもなくなったなら,箱根より手前ですけど,西に行って塔之岳に登るのです。そこからは尊仏猫が,狐娘の処に案内してくれるでしょう。狐娘には,あなたの祈願をかなえてくれるように頼んでおきます。安房くん,カトリーナが・・・・・・私はカトリーナのところに戻りたいので,安房くんが考えたようにはしてあげられないのです。だから,本当に,なにも思い残すことがなくなってから,塔之岳に登るのです。さようなら,あなたの安房くん」
おそらく,「わたしの姫さま」は「さようなら,わたしの安房くん」という意味のことを言おうとしたのでしょう。しかし,神というものは「わたし」とか「あなた」という言葉の使い分けが,ちょっとにがてなのです。
鎌倉の海岸に上陸し,そこで誓いを確認し,乗員達は別れました。その時が来たら古江戸のあった地によみがえり,たとえ武士として生まれなかったとしても,それぞれの立場で戦いをくい止めよう,と誓ったのです。
三年の後,安房守は塔之岳に登りました。山頂には尊仏猫がいます。尊仏猫は安房守の少し前を丹沢山の方に歩いてゆきます。
緩やかな起伏を成す稜線をわずかに逸れた尾根道の左手には,塔之岳,丹沢山,蛭ヶ岳,檜洞山などの山々が大きく結界を囲み,遙か下の方でキラッと光るのは,おそらく玄倉川なのでしょう。右手の尾根には大きな木は無く,背の高い草がたっぷりと日差しを浴びて風に揺れています。尊仏猫は振り返ることもなく,テケテケテケと小刻みな早足で歩いています。早足と言っても猫の早足ですから,安房守にとってはゆっくりしたもの。生涯の一大事が待ち構えているというのに,安房くんはくつろいだ表情でのんびりと歩いています。そうなのです。あの我慢大会のようなバカ尾根を塔之岳まで登って来た後だと,このなだらかな稜線を歩く人は先を急ぐこともなく,いつまでもここを歩いていたいなあ,という気分になるものなのです。
突然,安房守の前に,サッと狐娘が飛び出て来て,同時に右手に持ったダイヤモンドのナイフで安房守の首の動脈を断ち切りました。血を吹き出して仰向けに倒れながら,安房守は薄れてゆく意識の中で誓いをたてたのです。
左手に持ったダイヤモンド製の頭蓋骨のお椀に首から吹き出た血を受けて,狐娘は,安房守の心臓の辺りを左足で柔らかく踏むと,お椀を持った手を静かに空に向かって伸ばしました。尊仏猫が見上げるその姿は太陽を背に眩しく,まるで半径50マイルの土地を焼き尽くすあの白色火球の中に居るような猛々しさであり,狐娘はヌードだといっても色気など微塵も感じさせない恐ろしいお姿だったのです。
しばらくして,狐娘は尊仏猫と別れひとり東に向かい山を下り,血で満たされた頭蓋骨を片手に無造作に,死の地域に入って行きました。そして,今は荒れ果ててはいるのですが地形としてはなかなかの場所をみつけ,地面に血を零し,ダイヤモンドのナイフで血の染み込んだ地面をポンポンと叩いてから言いました。
「ここに生まれた人は Katz Auer の誓いをかなえるのです」
そして,きつね娘はどこかに行ってしまいました。
ナウシカ
ナウシカは夢を見ていたのです。その時にはナウシカはすでに死んでいたので,「夢を見ていた」と言うのは正しくないのかも知れません。しかし,ナウシカは「夢を見ている」と感じていたのです。
ナウシカは夢の中でも,「夢を見ている」という意識はありました。自分が居るのは,女城の在った辺りよりは西で猫寺よりは東,乙女沢台地から見下ろす勘太側支流の少し南側,その位の所のはずなのに,そこはナウシカの知っている町並みとは違った奇妙な雰囲気の場所でした。家々はすべて一間間口の店作りで並んでいるのですが,人の姿は無く品物も無く,家々の木々はすべてじめじめと湿気ています。足下は,びしょびしょの泥の上にこれもまた湿って朽ちかけた板が敷き並べてあり,所々に濡れたうどん玉のようなものが散らばっています。
「ここは感じ悪い!」
ナウシカはそこを去ることにしました。北に少し歩くと,あの川があるはずの所には,今まで嗅いだことのない変な臭いの「川」がありました。しかし,それは「川」と言って良いのでしょうか,垂直の石灰の壁で固められた四角い空堀なのです。側面には,丸い暗い穴が開けられています。水は底の方にほんの少しだけ,ゴミに囲まれて元気なく流れてます。
「こんな所は嫌!」
ナウシカは堅く目をつぶり,「ひーふーみー」と数えながらしばらく我慢をしてもう一度目を開けると,そこにはナウシカがよく知っているあの川があり,そしてその向こうには,懐かしい緑に輝く高台が広がっていました。でも,方々に花の咲いている緑の斜面は,ナウシカが知っている美しい乙女沢台地とは比較にならないほど,さらに美しくキラキラと輝いていたのです。人の気配は全く無く,人の造ったものの気配もありません。
「なんて美しい世界! エーゲ海のような日差しを浴びて! 人間が居ないとこんなにきれいな世界になるのかしら」
中井か下落合辺りの斜面を見上げて「エーゲ海」は大げさですが,ナウシカはイオニア海原産の姫なので,まあ良いことにしておきましょう。幸せなナウシカは斜面を登って行きます(夢なので,いつ川を渡ったのかとか,気にしてはいけません)。
下から見上げると緑と花で埋め尽くされたなだらかな斜面に見えたのですが,実際に歩いてみると,木々が枝を絡ませていたり,棘のある枝が垣根のように遮っていたり,だいたいにおいて,人の手の入っていない土地というものは歩きやすい所ではなく,そしてそれほど見通しの良い所でもないのです。
小さな池を囲む垣根(のように絡まった木々)をくぐると,そこに大きな動物守り熊が立っていました。ナウシカが最初に感じたのは,熊の身体の臭いでした。
「大きな動物は匂うものなのね」
ナウシカは胸一杯,その臭いを吸い込んでから,守り熊に語りかけたのです。
「こんにちは,おおげつひめさま」
「おや,いきなりお見通しなのですね,ナウシカ」
「おおげつひめさま。わたし,出番少なかった」
「何を言うのですか,ナウシカ。きちゃだめー,も言ったでしょ。それにクッキーも用意しに行ったし」
「たったそれだけ。きちゃだめー はお話の台詞そのままだし,あのお話のナウシカはドルクまで行ってあんなに活躍したのに」
「そういうナウシカもいるのです。そして,あなたも立派なナウシカ。あなたは人ではなく虫を選んだのです。ここは人間には穢土と言われている場所ですけど,あなたは大好きでしょ?」
「ええ,本当に。静かで美しく穏やかな世界」
「そうね,ナウシカ。でもね,穏やかに見えるのは,あなたが人として生きてきたからなのです。生き物は,いつでも懸命に生きようとして,多くの生き物は生きることが出来ないのです」
「ああ,やはりそうなのですね,穏やかに見えるのは,私が人として眺めているから。そして,おおげつひめさまは,サロンでのんきそうにくつろいでいたときも,ずっと生き物たちの世界に拡がっていらしたのですね。でも,なんか変 ・・・・・・ まさか,まさかあの殺し合いとあのひどい死に方でこのきれいな世界ができたのは ・・・・・・ まさか,わたしが虫を選んだから? わたしはひどいことをしてしまったのでは」
「そうではないのです。ナウシカ。この世界はナウシカが虫を選んだ世界です。でもね,ナウシカ。人と虫のどちらかを選ぶことになったら,ナウシカは必ず虫を選ぶように決められているのです。ナウシカが人と生きるのは,人がナウシカを求めたとき。もしくは,そこに虫が現れなかったとき」
「でも,私が選んだから」
「死んでいった人々の世界では,そうなったのはナウシカが虫を選んだせいではありません。そして,ナウシカが虫を選んだためにそうなったという世界では,ナウシカは虫を選ぶように決められているのです。ごたごたしているけど,そういうことなのです。Tabatha さんたちは,こんな議論が大好きでしたよね」
「懐かしい人たち。わたし,あの人達が大好きでした」
「そうですね,ナウシカ。色々な人たちが居て色々なことがあって。けれども,もう,お休みなさい,ナウシカ。私の側でゆっくりと」
「でも,おおげつひめさま。わたし,怖い。目をつぶったら,いつかまた,選ぶことになるのですか」
「そう,なんと言えば良いのでしょうか。ナウシカはいつかまた,選びます。だけど,それをあなたが選ぶと言って良いのか,私はなんと言い表せば良いのかわからないのです。でもね,ナウシカ。なにも心配することはないのです。私の所に帰ってきたのだから。目を閉じて安心してお休みなさい」
「ええ,そうします。動物守り熊さん,世界は暗くなっていきます。暗くなっていく透き通った世界。とても透き通っていて,どこまでも・・・・・・」
「眠りなさい,ナウシカ・・・・・・ふふっ」
カトリーナ
「カトリーナ。きょうは,,, きょうは少し早いけれど,夜の稽古を始めなさい」
「あら,メイちゃん。今から稽古を始めたら,終わった時お風呂の用意ができていませんよ!」
普段「あめのうずめのみこと」に連戦連敗のカトリーナは,めったにない攻勢のチャンスを捉えてあざやかなパンチを決めたつもりで,ウサさんの慌てる姿を期待したのでしょう。しかし,「あめのうずめのみこと」の次の言葉は,思いもよらぬものだったのです。
「稽古を始めなさい。カトリーナ。そして,越えて行きなさい」
「越えて行くって,あの崖っぷちを? 越えたら戻れないのに。良いのですか」
「そう。わかっています。カトリーナ,完全に越えて行きなさい」
これが,ふたりが交わした最後の言葉になりました。カトリーナは「あの崖っぷちを?」と言ったときには,すでに稽古の時の顔になっていて, 「あめのうずめのみこと」の次の言葉が終わらないうちに,もう,稽古に向けてすっかり集中しきっていたのです。
カトリーナは身支度を調えに行き,袴のひもをきりっと堅く締めて天香久山の日陰葛をたすきに掛けて戻ってきた時には,彼女の心はすべて,これからの一回だけの稽古に向かっていたのです。その美しい顔に表情はなく,「あめのうずめのみこと」に一礼をすると,静かな足取りで稽古場に歩いて行きました。
「あめのうずめのみこと」は神ですから(信じられないでしょうが,「あめのうずめのみこと」は神なのです),色々と考えて思い悩むというようなことはないはずです。それでも,「もしカトリーナが尋ねたら,なんと説明したら良いのだろう」と心配はしていたのです。それなのに,あまりにもあっけない展開でした。しかし,振り返ってみるならば,カトリーナなのだから,こうなるはずだったのです。
「あめのうずめのみこと」は二階の書斎に上がって行きました。書斎の窓際には大きな机があり,いつもここに座って,[特定の]神の愛でし乙女カトリーナの稽古を眺めていたのです。しかし,今日は,窓の外には目を向けず,じっと机の木目を見つめています。
早めに稽古を始めたのですが,あたりは暗くなり始めています。「あめのうずめのみこと」は表情のない顔で机の一点を見つめています。少しも動くことはなく,なにも考えることはなく,ただ時間だけが経って行きました。それでも,いつからでしょうか,「メイちゃん」はカトリーナのあの澄んだ鋭い声を待ち続けていたのです。そして,「きょうの稽古はずいぶん時間が掛かるなあ」と思ったとき,突然,あの声を二度と聞くことが出来ないという,まったくもって当たり前のことに気づいたのでした。
足を思いっきり机にぶつけて椅子を床にたたきつけるように倒して立ち上がり,窓枠を握りしめて下の稽古場を見下ろすと,カトリーナは名刀「樋に一葉」を抱きしめるようにうつぶせで倒れていました。
「あめのうずめのみこと」は神の表情になって(もしくは,なったつもりで),辺りがすっかり暗くなるまでその姿を見つめていましたが,突然何かに気づいたのでしょうか,人の表情に戻り,窓から離れ化粧室に向かいました。「あめのうずめのみこと」は「あなたの安房くん」が部下一同と怪しからん相談をしていることに気づいたのです。そして手早くお化粧をすると,カトリーナはほったらかして,お出かけになったのでした。
さて,「安房くん」の解釈によるならば,健太くんに「お行きなさい」と言い,カトリーナに「お行きなさい」と言い,そして最後に「越えて行きなさい」,「完全に越えて行きなさい」と言ったことになります。しかし「あめのうずめのみこと」は「お行きなさい」と言ってもどうなるのかは知らず,「越えて行きなさい」と言ってもどこに行くのか知らず,「完全に」に至ってはちょっとした付け足しで言っているだけなのです。ただ,それを健太くんとかカトリーナが心の底で願っていたから,もしくは,そうなることに決まっていたから,もしくは,何となくそうしたら良さそうな気がしたから,それを受けて神としてそれをかなえようとしているのでしょう。したがって,菩提という訳ではなくスジャータもスヴァーハ(インドのお嬢さん)も出てこないのですが,そうは言っても,そこがまあ,「あめのうずめのみこと」の魅力と言えば魅力であり,「あめのうずめのみこと」は「あめのうずめのみこと」なのです。
あずみ野
「あめのうずめのみこと」 はカトリーナ姫をお姫さまだっこしたまま,古江戸からあずみ野まで休むこともなしに歩いて行きました。カトリーナ姫はすでに死んでいます。しかし,神の表情の「あめのうずめのみこと」 が持ち運んでいるのですから,臭くなったり腐り始めたりせずに,まるで楽をするために死んだふりをして,だっこされているかのような姿だったのです。
「あめのうずめのみこと」 は,まず北西にどんどん歩き,所沢から飯能の辺りまで行き,そこから西に向きを変えました。この辺りまで来ると MalNotch 後の悲惨な光景からは遠くなり,奥武蔵を経て,いつもどおりの秩父山地が始まります。「あめのうずめのみこと」 は尾根だろうと沢だろうとお構いなしにずんずん進んで,雲取山から甲武信ヶ岳まで山の中を歩いて行きました。
秩父山地の山の中には登山道などまだなく,藪に覆われています。だから普通ならば,藪こぎをして傷だらけにならなければ歩けないのですが,「あめのうずめのみこと」 の行こうとするちょっと先を,地元の動物たち,即ち,森のくまさん,女狐さん,リスさん,モモンガーさんたちが交代で獣道を作りながら進んでくれたので,「あめのうずめのみこと」 はひっかき傷を作ったりカトリーナ姫の亡骸を傷だらけにしてしまったりせずに,歩いて行くことができました。さすがは,「あめのうずめのみこと」 なのです。
急な斜面を登って,また斜面を下り,とんでもなく急な斜面を登って,斜面を下り,急な斜面を登ってと続けざまにアップダウンを繰り返しても,息を乱すこともなく,また,汗だらけになってカトリーナ姫をネバネバさせてしまうこともなかったのです。「あめのうずめのみこと」 の汗の臭いはせず,カトリーナは腐らず,急な斜面を登って,また斜面を下り,とんでもなく急な斜面を登って,斜面を下り,山小屋の軒端に吊した甘干しの柿が烈しい秋の日に照らされふらふらするにも目もくれず,急な斜面を登って,また斜面を下り,もう一度とんでもなく急な斜面を登って斜面を降りてと数え切れないほど繰り返し,飯能から甲武信ヶ岳まで歩いて行きました。
甲武信ヶ岳からは北に向かって山を下りて千曲川に沿ってしばらく進み,八ヶ岳を左に見る辺りから西に向きを変え,両腕にカトリーナを抱えたままの二足歩行で赤岳を突っ切って反対側に降りて,そこからは,だいたい今の中央線の辺りを通って右手に八ヶ岳を見ながらフォッサマグナを諏訪湖に向かって進みました。諏訪湖の東側を通り過ぎるときには軽く片手を挙げてフォッサマグナの泉に挨拶を送り(Fossae magnae suae AUM!),それから,塩尻を通って松本を越え,今の大糸線に沿って穂高駅の辺りまで歩いて行ったのでした。
その間,「あめのうずめのみこと」 は一度も止まらず,汗くさくもならず,カトリーナを地面に下ろすこともなく,カトリーナも臭いを出すことはなく,「ほんの五分前に歩き始めたんですよ」という風情で,あずみ野に着いたのです。
あずみ野まで来ると向きを変え,西に見える雄大な山々に向かって少し進みました。そして,山々がのしかかるように迫るフォッサマグナの広大な野原のまん中に静かにカトリーナを横たえ,そのまま来た道を引き返して行きます。穂高駅まで引き返し,「あめのうずめのみこと」 は駅前の貸し自転車屋に行ってスコップを借りて,それから,しっかりと正面の山々を見据えながらカトリーナの所に戻って行きました。
「あめのうずめのみこと」 はスコップで穴を掘り,そこにカトリーナの亡骸を横たえ,そして,やや無造作に,土をかけていったのです。しかし,カトリーナの顔に土をかけなければいけないとこまできて,神の表情の「あめのうずめのみこと」 にもためらいが生じました。「あめのうずめのみこと」 はスコップを地面に置きました。
カトリーナは全くの無表情で,宝石のような目を空に向けて,けれども,なにも見ていません。「あめのうずめのみこと」 はカトリーナのこのような顔はよく知っていました。カトリーナは夜のお稽古の最後の方では,いつもこんな顔をしていたのです。 見慣れていたからこそ,「あめのうずめのみこと」 にはつらい表情だったのかもしれません。いつも死の淵をちょっと越えるところまで行っても,そこから戻ってきていたのに,今度は本当に越えてしまったのですから。いえ,それどころか「あめのうずめのみこと」 は,完全に越えてしまったカトリーナは戻ってこないのではなく,もう存在しないということもわかっていたのです。それでもメイちゃんは,形として残っているカトリーナに話しかけたのです。
「お帰りなさい。カトリーナ」
「本当に稽古が好きだったね」
「あめのうずめのみこと」 はそう言ってから,自分のまとった薄布を裂いてカトリーナの顔にかけました。そして,今度は本当に無造作に土をかけて,カトリーナの死骸を埋めてしまいました。最後に,ちょっとだけ盛り上がった土まんじゅうに向かってささやきました。「さようなら,けんちゃん」。
「あめのうずめのみこと」 はスコップを土まんじゅうの横において(後で貸し自転車屋に返しに行ったのでしょうか),山々に向かって歩いて行きます。しばらく歩くと立ち止まり,まっすぐに背を伸ばして正面にそびえる山々に向かって大きな口を開けて叫びました。それは神の叫びなので,人間には聞こえなかったのですが,飛騨山脈を成す岩体はとても深い所から地表近くまですべて振動し,山脈の北から南まで山鳴りが響き渡りました。そして山々の斜面からあずみ野に向かって,なぎ払うような,長く均一に続く激しい風が吹き下ろしてきました。「あめのうずめのみこと」 はその風を真正面から受けても顔をそらすことはなく,しっかりと立って,再び,正面にそびえる山に向かって叫んだのです。今度は,神の叫びだったのか人の叫びだったのかわかりません。しかし,仮に人に聞こえる叫びだったとしても,この風の中では人間は聞くことは出来なかったでしょう。
飛騨山脈を成す岩体は,地面近くまで振動しました。 この振動のため方々で落石が起こり,屏風岩でクライミングをしていた人々は大変迷惑したと言います。
もちろん強いのは
おそらく狐