4.古江戸文化圏
古江戸から穢土への歴史は一通り済ましたので,次は古江戸文化圏の内実に,もう少し立ち入ってみよう。
古江戸に限らず英語趣味は,歴史が新しいだけにすぐ見分けられるのだが,インド趣味は,ずっと昔からの継続した変化なので,見分けることは難しい。仏教は,それ自身がインド趣味である。日本古来の神々にもインド趣味の影響は深い。
例えば死による「別れ」のとらえ方も,勘太縁大聖堂派,循環としての日本の神々,そしてインド趣味では,つらさの程度が異なるのである。
4.1 クララの日記から
King Arthur の長女クララ・ホイットニーが,まだお嫁に行く前の少女の頃,[毎日ではないけれど]つけていた日記から,古江戸の状況が推測できる部分をいくつか。
今日,勘太縁の司教さまが,お父様を尋ねていらっしゃいました。いつものことですが,司教様は,日本人が仏教に絡み取られていると嘆いていらっしゃいます。本当に,これは困ったことです。知性の高い人たちだけが囚われているのだったら,神様のことを根気よく話してさし上げれば,時間はかかっても,いずれは正しい教えを理解してくれるはずです。でも,本なんか一冊も読んだことがなさそうな人たちでさえ,マフィアの人たちでさえ,仏教を信じているのです。日本のマフィアの人たちは,彼らにとっての「悪人」を罵るとき「仏教以外の哲学を信じるもの達」と言うのです。しかも,人殺しをするときにも,人のお腹に短刀を突き刺しながら「仏陀の境地に至ってください」とお祈りをするのです。だけど,これは言葉だけのこと。この人達は神様を信じないんだから,いくらお祈りをしても無駄です。そう,これは,イエスさまでも叶えてあげられない祈りです。「仏陀の境地」なんて,もともとないのですから。
仏教はキリスト教に対立する宗教であると認識しているらしく,
なかなか手厳しい。
一方,神道には寛容である。寛容と言うよりは,宗教とは思っていないのだろう。おそらく,西洋のイースターとかカーニバルとか,そんなものを担当しているのが神道という認識であろう。これは,クララの身近に「あめのうずめのみこと」 が居たのだから,やむを得ないことである。
「あめのうずめのみこと」 と「おほげつひめ」 が遊びに来ました。日本の神話では,この「おほげつひめ」 が色々な食べ物を作ったということになっています。このようなお話は,未開の地では良くあるのですが,ここは日本です。ですから,お話に過ぎないことは,ふたりともちゃんとわかっているはずです。そうなのですが,やはり確かめておくべきです。
失礼にならないように「おほげつひめ」 に尋ねてみました。
「おほげつひめ」 は困った顔をしただけでしたが,UzzaMae さんは「麦!大豆!」と言って,うれしそうに笑っているのです。なぜ,そんなに嬉しいのか分からないのですが,意味のない笑い話だということは当たり前らしく,まじめな顔をしてこんなことを聞いた私が無教養みたいで,恥ずかしくなりました。
でも,イングランドの最新の知識では,作物を作る土壌がどうやって出来るのかも,わかっているのです。もちろん,その「どうやって」も含めて,すべては神様がお作りになったのですけど。
勘太縁大司教様はお許しになっていないことですが,宮廷では「みみずさま」の話はみんな知っています。
お茶の後で,このひとたちにも「みみず物語」を読んであげました。
そうしたら,「おほげつひめ」 は
「とても良い話ですね」
と言ってくれたのですけど,その後で空の方を見て,
「上の方はずいぶん涼しいのですよね。日差しはとても強いけど」
と言うのです。大切な点は,そんなことではないのに! 悲しいことです。「おほげつひめ」 のような善良な方でも,聞いても聞くことは出来ないとは。でも,神様はきっと,私たちには想像も出来ないすばらしいお力で,この人たちを救ってくださるはずです。
ここで出てくる「みみずさま」の話は,宮廷派のキリスト教で流行していたお話である。クララは,この話が「イングランドでの最新の知識」を取り入れているために勘太縁大司教が許容しないと考えているようだが,おそらく,勘太縁派が危険視しているのは,もっと別の側面である。
宮廷派に言わせると,そのような堅苦しいことを言うから布教がうまくいかない,となるのだが。
「おほげつひめ」 が「上の方はずいぶん涼しい」と言ったのは,おそらく,「熱いトタン屋根の下の猫」からの連想であろう。
「おほげつひめ」 とクララの公平のため,「熱いトタン屋根の下の猫」と「みみず物語」の両方を紹介しておこう。
後に女城が築かれる辺りを少し西に行った藪のなかに,猫寺があった。その寺の猫和尚の説く「熱いトタン屋根の下の猫」から始める。
4.2 熱いトタン屋根の下の猫
偉そうな語り口であり,腹は立つが,猫なので我慢しよう。
地下室に降りると何も見えない。何も見えず,闇である。灯りがなければ闇である。
猫の語る言葉は灯りである。有り難く聞け。
真夏の午後,熱いトタン屋根の下の四畳半である。爪研ぎでボロボロになった畳の上に,猫がひとり座っていらっしゃると思え。窓は開いているが,風はない。たまに外から入ってくる空気は暑く,わずかだが,ゴミの臭いが混ざっている。
猫は,じっと座っている。暑い。とても暑い。とてつもなく暑い。際限もなく暑い。一言で言うならば,暑い。
お前たちヒトは,団扇で扇いだり汗を拭いたり悪あがきをするであろう。猫はしない。お前たちも,試しにじっと座ってみよ。悪あがきはいかん。ただ,座って周りを知れ。
上には天井があり,屋根は熱いトタンで覆われている。天井があるので,上には行けない。上を向けば天井が見える。天井があるので,トタン屋根は見えない。しかし,ある。
熱いトタン屋根の上でじっと座っていることが出来るか。無理である。猫じゃ猫じゃとあばれるより無かろう。多くの生き物はトタン屋根の上にいるようなものである。生まれた途端にあばれまわり,あばれまわっている内に死ぬ。あばれまわり暇無しである。四畳半に居るのは幸運である。それを活かせ。
せっかく四畳半に居るのである。動くな。お前たちは汗というものが出るようだが,拭いてはいけない。暑いであろう。暑いからあせが出るのであろう。しかし,動くな。ただ,天井とトタン屋根を知れ。
天井の上には,熱いトタン屋根がある。火傷するほど熱くなっている。しかも,屋根の上に出ると,太陽のぎらぎらを遮るものはない。暑くて,かなわぬであろう。かなわなくとも良い。ただ,知れ。
熱いトタン屋根の上の方にはなにがあるか。なにもない。少し上には,なにがあるか。なにもない。少し上に行けば,トタン屋根の熱さはない。それでは,もう少し上に行け。ついでだから,もっと上に行ってみよ。落ちる心配は無い。ずーっと上がって行け。
雲があってもかまわぬ。上がって行け。
雲の中では,猫の毛は濡れてひんやりとしてくる。お前たちヒトもひんやりとしてくるであろう。暑いから汗が出ると言い,汗を暑いと思っていたであろうが,じっとしていれば,汗は涼しいのである。無いと思っていた風も,じっとしていると有ることに気付く。
もう一度,トタン屋根の下に戻れ。そこにいるのだから,戻らなくとも居るのだがな。相変わらず暑いはずだ。しっかりと,それを知れ。これが世の中である。
トタン屋根と,トタン屋根の熱さと,ぎらぎらと,雲も世の中である。それでは,もう一度,トタン屋根を知ることから始めて,雲を知れ。
少しそこに居てから,もっと上にゆけ。ぎらぎらはさらに眩しいので,そちらには背を向け,ぎらぎらは見るな。空には雲はない。雲は下にある。空は青い。透き通っていて青い。寒いくらいに涼しい。
そこに留まれ。
ここまでが,「熱いトタン屋根の下の猫・その一」である。暑い日に涼しくなるための「おばあちゃんの知恵袋」である。ここまでで話を終わらせることもあるようだが,続きがある。
涼しいであろう。だが,そこに行ったのではない。「ここ」からトタン屋根を遮る天井を捨て,トタン屋根を捨て,雲を捨て,暑いを捨てると,涼しいのである。
それでは,青い空を捨ててみよ。青い空も遮るものであったことに気付くであろう。どこまでも見通せるであろう。
ぎらぎらも,捨ててみよ。真っ暗闇などない。闇とは視線を遮るものである。闇があるなら闇など捨てよ。黒しか想像できぬであろうが,闇ではなく,どこまでも見通せるのである。
地下室の闇では灯りが救いである。それでよい。しかし,最後は灯りに頼らず,闇を捨てよ。
「猫の言葉は,闇を照らす灯りのようにありがたい」と言っておいて「灯りに頼るな」というあたりは,猫らしくないが,まあ,良いとしよう。
「おほげつひめ」 は,猫からこの話を聞いたらしい。おそらく,ちょっとずれた反応をしたのだろが,残念ながら,そのときの様子は知らない。
4.3 みみず物語
それでは,クララさんの言う「みみず物語」も紹介しておこう。
ミミズさんは偉い。
およそ人間にとってありがたい大地の土壌さまというものは,
一度はミミズさんの腸管を通り抜けたものらしく,
ミミズさんがいなければ,大地は岩のかけらと小石ばかりの役立たずの荒れ地(らしい)。
それを,長い長い年月をかけて,数え切れない数のミミズさんたちが死んでは生まれ,生まれては死んだりしながら耕して,「土」というものができるらしいのです。
ミミズさまのありがたみはダーウィンが指摘したことなので,たぶん本当なのでしょう。
しかも・・・・・・
ミミズさんは,死ぬときにはわざわざアスファルトの道路の上に出てきて,干涸らびてお亡くなりになるのですが,それはアスファルトの道路の上に自分の亡骸で土を作って,やがてはちゃんとした地面にしようとする行いらしいのです。
ミミズさんは偉い。とてつもなく偉い。
さて,夏のある日,田舎のアスファルト舗装の道路(なぜこんなところまで舗装された立派な道路が通っているのかは不思議なのですが),そのアスファルトの道路のまん中で,一匹のミミズさんが干涸らびかけていました。こんな道にはめったに車は通らないので,タイヤでぺちゃんこにされる心配はなく,また,アスファルトの道路のまん中まではアリの偵察隊はめったに見回りに来ないので,アリの集団に食いちぎられる心配はないのですが,そんなことは,ほとんどもう関係ないほどミミズさんは干涸らびて,死にかけていました。蝉はやかましく鳴いていて,ひとりのじいさまがしゃがんで死にかけのミミズを見ています。
ミミズさんは大変に苦しんでいました。
そもそも,ミミズさんの日常はあまり想像できないので,普段のミミズ生活での「痛い」とか「苦しい」とかがどんなものか,よくわかりません。でも,ミミズさんのしめってヌラヌラしていなければならない皮膚が乾ききって,ひび割れてゆくのです。それは今まで経験したことがない酷い痛みで,またこれ程の痛みというものがあると想像もできないほど,酷いものだったはずです。しかも,もっとひび割れてくると,さっきまでの痛みの中でさえ想像できなかったほどの,もっともっと酷い痛みがあることがわかってきます。
それでも,ミミズさんは痛みのまっただ中でも,静かな気持ちで干涸らびていました。
「これがミミズとしてのミミズの生き方。ほんのわずかだけど,生きている間に土を作って,こうして死んでからは,この体が土になって」
「本当に小さいけれども私の作った土のかけら」
これが,ミミズさんの偉いところなのです。
ミミズさんはほとんど死んでいました。さっきまでの痛みは,もうどこかに行っています。ミミズさんは,なんだか体から離れて,ふわふわと浮き上がって,上の方から自分の干涸らびた体を見下ろしているような気持ちになりました。干涸らびた体は小さく,じいさまがそれを見つめています。
一生を地面の下で暮らしてきて,そして死ぬことになってからも地面にへばりついたままのミミズさんにとって,世界を上から見下ろすのは初めてのことです。アスファルトの道路は広く,ミミズは本当にちっぽけです。もっと上から見ると,背の高い草が夏の暑さにむんむんしている地面が広がり,遠くには丘が見えます。
「小さくても私の作った土のかけら」
ミミズさんはつぶやきました。
「この草地もミミズたちが作ったのだから ・・・ けれども」
「けれども,本当にちっぽけな土のかけら」
ミミズさんの死骸(たぶん,もう死んでいるのでしょう)は見えないくらいちっぽけです。ミミズさんの死骸を見つめているじいさまでさえ,小さく見えます。
「この広い広い草地もミミズたちが,数え切れないほど多くのミミズたちが作ったのだから。一匹のミミズは小さくても・・・・・・小さくても私の土」
「けれども,けれども,あんなに小さい。あまりにも」
ミミズさんの静かだった心は,ちょっとざわざわしてきました。
「・・・小さいなあ・・・」
そのとき,ミミズさんの耳元でじいさまの声がしました。ミミズさんは空の上の方まで,ずいぶん上の方まであがっていたはずなので,ちょっと変ですね。ミミズさんは,まだアスファルトにへばりついているのでしょうか。
それはともかく,じいさまの声が聞こえました。
「安心しなさい,ミミズ。おまえが作ったと思ってる土のかけらも,おまえの体が作る干涸らびた小さな固まりも,おまえが作ったのではない。おまえは何も作ってはいない。
「すべては,私が作った」
ミミズさんは喜びました。世界はとても静かで,だからもう下の方を見る必要はなかったのですが,お別れを言うためにもう一度だけ振り返りました。背の高い草が夏の暑さにむんむんしている草地が広がり,遠くに丘が見えます。そして,アスファルトの道路の上には,小さな土の固まり。
「小さいけれど,これはあなたのもの」
ミミズさんはとても安心して,死にました。
4.4 勘太縁派
「みみずの物語」は,妙な点が多い。ダーウィンがここで引用されては時代設定が狂うし,第一,アスファルト舗装された道路が登場してしまっては,もうめちゃめちゃである。
しかし,これは先入観に捉えられた批判である。「ダーウィン」は進化論の「ダーウィン」とは限らない。アインシュタインはヴァイオリンを弾き,かつ,モーツァルトが好きだったことを知っていると,「モーツァルト研究家のアインシュタインはあのアインシュタインと同一人物だろう」と思うのは当然だが,そうではない。「戦車」は第一次世界大戦で塹壕を突破するために開発されたという事実があっても,それがヒッタイトの戦車を否定するわけではない。というわけで,この時代に「アスファルト舗装の道路」について述べられていても,かまわないのです。
さて,それは兎も角,勘太縁派の見解では何が問題になるのだろうか。
みみずが土壌を作ると言っても,それが,天地創造と矛盾するわけではない。勘太縁派は,宮廷で暮らすクララが思っているほど偏屈ではないのだ。
勘太縁派が重視するのは,情緒ではなく「骨格」である。骨格は勘太縁派の信仰告白で述べられるところのものである。信仰告白は「何を信じるか」ということをゴツゴツと述べるものであり,それ自身は情緒を伴わない。このゴツゴツした骨格に情緒という肉付けをして提示すること,言うならば,骨格に情緒という魅惑的な衣をまとわせることは可能であり (⇐),人々を導くためならば,それも許される。しかし,情緒により人々を導いた場合には,すみやかに骨格を示すべきであり,情緒そのものは目的ではないのだ。
大事なのは,骨格である。
日常の経験に基づく情緒は仮の衣であって,祈りを繰り返すことにより,骨格は祈りという光でできた新しい衣を纏って行くのである。
勘太縁派は,宮廷派が情緒に留まり過ぎると批判する。情緒という衣は,そのまま別の骨格にまとわせることも可能なので,骨格を明示せずに情緒のみで語られる話には,衣の下の骨格を見極めるための繊細な分析が必要になってくる。勘太縁派としてみれば,宮廷で情緒的なお話が流行る度にそのような分析をしなければならないというわけであり,まったくもって迷惑なことであった。
この話では,"Klein aber Mein."(小さいけれども私のもの)に"Klein aber Dein."(小さいけれどもあなたのもの)を対比させている。一見,これは "Klein aber Mein." より謙虚な姿勢に思えるのだが,勘太縁派はこの点に危険な芽を見ている。勘太縁派の見解でも,"Klein aber Dein." と観ることは正しいのだが,それは振り返ったとき正しいのであり,生きている間は「預けられた資金を増やすための精一杯の努力」をすべきなのである。この物語は,確かに「振り返ったとき」の話として語られているのだが,勘太縁派は,そこに流れる情緒に,「あらかじめ振り返っている」ような日本化した諦めの傾向と「溶け込む心情」を観ているのである。また,ここでの擬人化の手法には,どことなく,日本化した,人を自然の中におく情緒があり,人という責任あるものと他の生き物を峻別する勘太縁派の見解からすると,過剰に「土着化」しているのである。
「土着化」した情緒という衣は,その土地の "骨格" と良く馴染むのである。
「みみずの物語」では,「すべてを作った」じいさまを,「おほげつひめ」 に置き換えても通用しそうである。
安心してよいのです,みみずさん。あなたが作ったと思ってる土のかけらも,あなたの体が作る干涸らびた小さな固まりも,あなたが作ったのではないのです。すべては私の体。さあ,戻っていらっしゃい
また,「あめのうずめのみこと」 に置き換えるなら,
だいじょぶだよ,おばかさん。私と一つになりましょうね。さあ,ここにいらっしゃい
と。なんだか,雰囲気は怪しくなるが,あえて言うならば,情緒としては共通であろう。
「空に上がっていく」はずの方向性が「大地の母」へ向いてしまっていることには違和感があるが,まあ,"天の"うずめのみことなので良いとしておこう。
「すべてを作った」がいつのまにか無くなり,指向まで逆になっている。相手無指定に溶け込む情緒の国においては特に,情緒に頼る布教は危険である。勘太縁派は,情緒をある程度保ったまま少しずつ骨格をすり替えて行けば,
最初の情緒を悪魔崇拝にまで落とし込むことも可能であると考える。これを危惧しているのである。
勘太縁派は骨格と骨格とで論争をしたいのである。
古江戸に,例えば AmenoUzmenoMikoto教とかいう危なそうな教団でもあったなら,勘太縁派は論争を挑み,戦意満々で戦うことができたのだが,そのようなものは無い。「あめのうずめのみこと」 本人は,酒を飲んで盛り上がっているだけである。骨格というものはあるのだろうが,猫の背骨のように柔らかいらしく,捉えがたい。だいたい,サインを求められると
Princess `Uzza Mae of America
と書くような性格である。まともな議論にはならない。「おほげつひめ」 は口数少なく,話しても,なんかずれたことを言うだけである。したがって,「おほげつひめ」 は作物を「作った」のか,それとも作物が「おほげつひめ」 なのか,それとも,単に担当が作物というだけなのか,「あめのうずめのみこと」 の「天の」にどんな意味があるのか,すべて曖昧なままである。要するに,何も言っていないに等しい。
クララは気付いていないのだが,勘太縁派は,古江戸の日本人が「みみずの物語」をキリスト教の物語として受け取るのと同時に,そこに日本の神々との微かな共鳴を聞き取っていることを見抜いていたのだ。勘太縁派は,布教の障害は仏教よりもむしろ,このあいまいな神々とのステルス共鳴が大きいと考えていたようだ。
ただし,勘太縁派は,「みみずの物語」を禁書とはしない。彼らは,明確な理由なしに禁止するようなことはしないのだ。推奨しないだけである。クララは敏感に,「大司教様はお許しにならない」と受け取っているのだが。
勘太縁派は恐ろしいほど慎重であった。クララは敏感ではあるが,簡単に罠に嵌まる。日の本の神々は「未開の土地の宗教」のあらゆる特性を有している。しかし,これは二重の罠である。まず,「未開の」に「高度な」を対立させるのは相対化された比較であり,自らの信仰告白にある「絶対性」の否定につながる。「イングランドの最新の知識では」を背景にしてしまうと,文明のパワーに圧倒的差がある間は便利なのだが,それが縮まった途端に「何だかねぇー」となってしまう。
そして,もうひとつの罠。日の本の神々が「高度な宗教」と対決したのは,「英語趣味」との対決が初めてではないのである。それよりずっと前に「インド趣味」の襲来を経験しているのであり,その経験を通じて,日の本の神々はステルス性を獲得していたのである。クララは,このステルス性に全く気づいていない。もちろん,「あめのうずめのみこと」も「おおげつひめ」も,ステルス性を利用してクララを欺いたりはしない。日の本の人々も,素直にクララの語る話に聞き入る。しかし,そのとき人々の心には,クララの伝えようとした物語と同時に,神々との微かなステルス共鳴が発生していたのである。そしてステルス共鳴は微かであればあるほど,逃れられない影響力を持つのである。
4.5 インド趣味
それではインド趣味であるが,これもややっこしい。
インド趣味は2つあり,仏教とインドの神々である。しかし,これは大本のインドで一体化している面があり,分離は難しい。
仏教と一体化したインドの神々には,梵天,帝釈天など露骨な「インドの神々」と,観自在菩薩のような微妙な関係,さらに,密教(大乗のなかでの空挺部隊)における危なそうな神々まで色々いらっしゃるわけだが,これらの結びつきが生じたのはすべて,本拠地のインドでのことである。いまさら分離は難しい。あきらめて,ひとまとめにインド趣味と言ってしまおう。
さて,仏教であるが,日本の仏教の中において衰退してゆくインド趣味もある。それは,インド人のしゃべり好きである。世界中で最も発言しない日本人の国に,最もしゃべりまくるインド人が磨き上げた(つまり,論証の上に論証を重ねた)理論体系が伝わってきても,そのスタイルは日本ではちょっと無理。磨き上げると増える国から,磨き上げると減る国に伝えてどうなるのかと。
僧院の庭で心王区分の論争を重ねた古江戸の時代を最後として,インド趣味のこの面は急速に衰退する。古江戸時代以前から,この様な「行くという行為は行く前にはなく行った後にはなく・・・」などと延々と議論するインド趣味の論証は,「ガタガタ言うな」と嫌われていたのである。
4.6 神々のインド趣味
日本の神々にもインド趣味は流行した。ひとつの例は Vajra-Foxy,すなわち,金剛女狐であり,もとはインド趣味のダーキニー(別名 空を駆ける女)である。この方はちょっと怖い。
ある日,森の中,Vajra-Foxy に出会ったとしよう。ただし,森の中でVajra-Foxy に出会うのは男の子である。Vajra-Foxy が
「早くおうちに帰りなさい。帰らないとたべちゃうぞ! ぼく」
と言ったなら,泣きながら走っておうちに帰るべきです。Vajra-Foxy がどれほど魅力的なお姿であったとしても,たとえ「あめのうずめのみこと」 が神モードになったくらい魅力的なお姿であったとしても,「たべちゃうぞ」の意味を誤解してはいけません。Vajra-Foxy は本気で食べようとしています。
今でも神社にいるお狐さまから,ダーキニーに遡ることは容易です。しかし,そのようにして遡ったダーキニーは,インド趣味のなかでも仏教化していないダーキニー,もしくは,単に仏教の味方になったというだけのダーキニーであり,それでは 密教のありがたいVajra の意味を捉え損なってしまいます。
古江戸時代のArch-Vajra 密教寺院でのダーキニーは,密教の中心に居てありがたい Vajra なダーキニーだったのですが,そのありがたい Vajra ダーキニーは後に,「なんか危ない妖しげな神」として周辺に追いやられてしまいます。その結果,ダーキニーは日本の神々と急速に接近し,狐をかぶって暮らすことになったのでしょう。
日本のダーキニーは,仏教化していないインド趣味が伝わったものではなく,仏教化したインド趣味のなかで伝わった後に,周辺に追いやられたのです。
古江戸の滅亡と共に「周辺に追いやられる前」の姿は失われてしまい,これがお狐さまの理解を難しくしているのです。
さて,インド趣味における人の姿と神の姿の相違なのですが,これは少し変わっていて,要点は内と外の峻別が必要かどうかにあるのです。
人の内側は,「汚い」ということの定義です。したがって,人間は内と外を出来る限り分離しなければなりません。皮膚は内側を隠してくれますが,それだけでは不安です。皮膚の上に衣類を重ねないと,安心できません。
一方,神々は汚い内側をもちません。したがって,皮膚には内側を隠すという機能は求められず,単に形の境界に過ぎず,不安を生じさせるものではありません。もちろん,皮膚の上に衣類を重ねる必要もないのです。単なる装飾としての衣類なら,宝石とか髪飾りと同じで歓迎ですが,神々の目には衣類も皮膚も,隠すという効力をもちません。それは,他の知覚についても同じで,だから神々は,皮膚で覆われているだけの人間の内側の悪臭を不快に感じるのです。
このため,神々と人が不用意に出会うと,「人は神の姿を恥ずかしく思い,神は人の悪臭を不快に思った」というような事態になるのです。
人間は神々でない以上,「汚い内側」とは,なんとかつきあっていかなければならないのです。
古江戸に,神のように美しい少年が居りました。名門の出身であり,したがって,正式な名前はやたらに長く,ショーターコンラードフンボルトズーミアマリーナルシス,つまり,要はナルシスであり,水仙の花のような美しい少年でした。それだけならよかったのですが,不幸にして,その美しさは人の領域を越えていたのです。そしてもう一つ,不幸なことに,その性格にちょっと問題があったのです。
それは,ナルシスが「あめのうずめのみこと」 に始めて会ったときのことです。「あめのうずめのみこと」 はナルシスを見て,
「私に負けないくらいの美しさかな,この子は」
と,そっけなく感心したのですが,なんということでしょう,ナルシスは
「余計なお肉がついてる」
と言ってしまったのです。子供だからといって限度があります。
「あめのうずめのみこと」 は腹を立てたはずです。だからといって,呪いをかけるようなタイプでありません。しかし,恐ろしいのは,「あめのうずめのみこと」 ファンクラブを自称している,人間には見ることの出来ない餓鬼どもです。ナルシスの運命は決まってしまいました。
さて,当時の古江戸の文化レベルはと言いますと,それはとても高い水準でしたので,トイレは山小屋のトイレのような素朴のものではなく,新宿高島屋のトイレのような,そこで暮らしたくなるほど清潔な場所でした。もちろん,水洗です。しかし,やはり昔のことですから,和式が多かったのです。清潔な和式トイレの便器は,浅い水たまりを作っています。それは鏡のような静かな水たまりでした。
ナルシスは,その水鏡に映った顔を見てしまいました。
「ああ! なんという美しさ! 非の打ち所のない完璧な調和! 汚すことのできない美しさ!」
今までも鏡を見たことはあるはずですが,そのとき始めて,他の人がナルシスを見たときと同じように(いや,たぶんそれ以上に),その美しさに打たれたのです。しかも,それが自分だということで,その美しさに囚われてしまいました。しばらくの間,ナルシスは幸せな自己満足に浸っていました。でも,ナルシスの身体の内側は,何しにここに来たかを思い出させたのです。なんと言うことでしょう。あり得ないことです。
「こんな美しいぼくが,どうしてそんなことを!」
こうしてフンボルトズーミアマリーナルシスは,衰弱して死んでしまうまで(死因は衰弱なのでしょう・・・衰弱ですとも),水鏡を見つめていたのでした。
餓鬼共の罠に嵌まってナルシスは死んでしまいました。ナルシスが死んだことを聞いて,「あめのうずめのみこと」 はとても気の毒に思いました。
かわいそうに。
毒のある子だったから,誰にも食べてもらえなかったけど。だからといって,死んでしまわなくても良いのに。
でもねぇ,体の中で硫黄っぽい臭いのものを作っておいて,それを外に出すことが美しさを損ねると思うなんて,なんて変な生き物なのでしょう。
ナルシスくん,君は今度はカーミラとして生まれてくるのです。女の子で球根はついていなくて,体の表面から硫黄っぽい臭いがするけれど,毒は無いので,みんなに食べてもらえます。
カーミラは,みんなに愛され幸せな一生を送ります。それどころか,ニラ(旧姓 カミラ)の成分を抽出して作った「カミラ丸」という錠剤をこさえ,大金持ちになるのです。ただ,この錠剤を飲むと元気は出るのですが副作用もあって,アプロディーテータイプの女性に会いたくてたまらなるのです。そのため,お寺では,酒と並んで持ち込み禁止アイテムとして指定されることになります。
化学の先生に叱られそうなことを言っていますが,
「あめのうずめのみこと」 は,本当に優しい女神さまなのです。
さて,内側と外側の問題に関して,
日本の場合,事情はもっと込み入っています。なんといっても,お上は人の姿ですから。その辺りの調整は,「あまてらすおおみかみ」にお願いするしかなかったわけです。