古江戸物語: 2.古江戸

2. 古江戸

2.1 大聖堂

古江戸に勘太という若者がいた。勘太はお馬乗りの名手であった

勘太がその愛馬にまたがり川辺を行く姿は、それはそれは見事なものであった。勘太はその歳ですでに,古伝を離れた優美にして華麗なるお馬術を完成していたのである。人々は感心し、それを「勘太乗り」と称し褒め称えた。 勘太乗りの錦絵は、古江戸の町中見かけぬ所なき勢いで売れまくり、その結果、勘太絵に画かれた川までが「勘太川」として知られるようになった。古江戸の人々は,そういう性格だったのである。

さて、勘太は川辺をどこに向かっていたのか。 当時、勘太川の岸辺に西洋の神「キリスト」の大聖堂があった。勘太はこの大聖堂に通っていた。 つまり,勘太はいわゆるクリス徒であった。 古江戸の人々は、この勘太川の岸辺の大聖堂を「勘太縁かんたべり大聖堂」と呼んだ(勘太ご縁の大聖堂という意味も込められていたのだろう)。この地は、後に「神田」と呼ばれることになる。

ところで、ご存じのようにイギリスにはカンタベリー大聖堂という大聖堂が存在する。まあ,それだけならば「古江戸の失われた大聖堂にちなんで、後にイギリスの地に同名の大聖堂を建てたのだろうよ」というだけのことであり、イギリスの地名がアメリカでそのまま使われるのと同じことだろう。

しかし、イギリスにはカンタベリー大聖堂があるだけでなく、カンター(canter)という走法もあり、おまけに、この呼び名は、カンタベリー大聖堂に馬で向かう巡礼者の走法に由来するとされているのだ。

からくりは明らか:

勘太・勘太乗り    ⇒   勘太縁大聖堂
という因と果の関係をわざわざ逆転させ、
カンタベリー大聖堂 ⇒   canter (canterbury trot)
としたのであろう。

これを先んじて流布させてしまえば、逆順は滑稽な冗談としか感じられなくなるという仕掛けであろう。 あきれたことではあるが、アレクサンドリアの聖カトリーナとヒュパティアの例を持ち出すまでもなく、「歴史」というものにおいては、これはありふれたトリックなのだ。

2.2 仏教陣営

さて、この西洋の大聖堂の目と鼻の先に密教の本拠地があった。

Arch-Vajra

即ち「根本金剛」と呼ばれた寺院である。この寺院「アーキバジラ」から、「あきばさら」を経て、後の地名「あきばはら」が生じることになる。

節度を保つことにはちょっとうるさい顕教に対し、密教は豪快な印象があるので、また、「金剛」(Vajra)という雷神に通じる響きの魅力もあって、剛胆な生き方を好む武人を「ばさらもの」よぶことになる。 「あきばさら」の「ばさら」は、この「ばさら」である。それは兎も角、当時、秋葉原は密教の聖地であった。

さて、この Arch-Vajra がキリスト教陣営と古江戸を滅亡に導く闘争を繰り広げたのかと言うと、そうではない。Arch-Vajra はキリスト教サイドと一応は対立していたのだが、比較的良好な関係にあった。 密教は、意外に融通が利くのである。

一方、仏教と言っても顕教の本拠地は、と言うと、それは現在の高田馬場にあった。そこは「如来なるもの」、即ち、サンスクリットで「タターガタバーバ」(Tathagata bhava)と名付けられた聖地である。 もちろん、高田馬場という地名はこれに由来する。

そこには、仏教の大学があった。とても大きな大学であった。当時、これに匹敵する規模の大学は、インドのナーランダ大学、ヴィクラマシーラ大学のみであった。

ナーランダ大学に匹敵するという自負は、童謡にも片鱗を留め、

なーらんだ なーらんだ ・・・・・・
と唱われている。しかし、童謡に絡むと話しが混乱するので、止めておこう。

さて、話を戻して、今の高田馬場の隣は新大久保である。

新大久保というと、大久保という地名があって新大久保があるのであり、

大久保なければ新大久保なし
とお思いであろうが、さにあらず新大久保が先なのだ。もちろん、「新」大久保ではない。正しくは心王区分と書いて「しんのうくぼん」と読む。

心王しんのうは対象を認識する心であり、認識していることによりそこに生じた特徴が心所しんじょ。心王の区分くぼんを論ずるのが心王区分。

心所の区別は簡単である。猫を認識しているなら、猫心所。芋ならば芋心所。海老ならば海老心所。同じく、蟹心所、白海老心所、河豚ふく心所、ウニ心所、からすみ心所、松茸心所という具合である。

しかし、心所のお好みは別として、心王の区分は難しい。いや、そもそも、区別する以前になんのことか良く分からない。「猫を認識しているならば猫心所」というときの「猫を」がすでに心王に依るのであろうとか、したがって、この「心所は心王に依る」ことをもって心王を区分するのであるとか、つまり、心所の区分が心王に依る、その依存性をもって心王を区分するとか、要するに難しいのである。いや、有り体に言えば、何のことやら,全くわからないのでございます。

というわけで、学僧たちは僧院の庭で、来る日も来る日も心王区分の論争に明け暮れておったとな。村のロシア娘達は、聞いていても意味は全く分からないのだが、いや,そもそも分かろうなどというという気は無いのだが、元気いっぱいに問答を戦わせる学僧の姿が面白く、格好いいなあと思いながら垣根にへばりついて見ていたそーにゃ()。僧院の庭で心王区分の論争に明け暮れる学僧にちなんで、その地を心王区分と称す。

後に僧院も失われ、「しんのおくぼん」の地名だけが辛うじて伝えられ、それに新大久保という表記を当てるうち、「新大久保」があるならば「大久保」がなければおかしかろうと生まれたのが、大久保。そのうちに、大久保が先で後から新大久保との思い違いに至ったのであろう。 あきれたことではあるが、これは分からないでもない。

さて、キリスト教サイドと決定的対立をしたのはこの陣営かというと、そうではない。顕教も、密教ほどでないにしろ他の宗教に対して物わかりが良いのである。

それでは、どこが MalNotch を引くような絶滅戦争を戦うことになったのか。

しかし、この話は後にして、もう少し古江戸の地を巡ってみよう。

2.3 北千住から日暮里

契丹(きったん)人が千人住んでいたので、「きったんせんじゅう」と称す。まこと、国際都市「古江戸」の面目躍如である。後に、契丹人も居なくなり、契丹人などと言う人種は想像もつかなくなり、契丹という言葉も失われ、「きたせんじゅ」は北の「せんじゅ」だろうとの思い違いに至ることになるのだが、「千人住んでたので千住」の部分だけは何とか残って「北千住」となったわけである。そして「北千住」があるなら「千住」もなければと、「千住大橋」、「南千住」と賑やかなことである。

契丹人たちとは、もめ事もあったようだ。

そこで「古江戸の中心には入り込むな」とばかりに、日本人が林の中に陣を構え、旗指物が翻々と賑やかな林が「日本林にっぽんりん 」。もちろん、後の日暮里である。

契丹人と日本人がいよいよ本気で戦いそうになると、

「まあ、まあ、落ち着いて、お茶飲みなさいな。だんごもあるよ」
と優しくなだめる美しい姉妹がおってな。この姉妹が両者の中間に住んでいらしたので、むごい争いにはならず済んだと言う。有り難いことである。この優しい姉妹は古江戸者ではなく三河から来たので、姉妹の住んで居たあたりが「三河姉妹」。これが後の「三河島」なのだが、もちろんそこに島はない。

このように書くと「見てきたように話すではないか。なにを根拠に」と言われそうだが、わからないことも多い。

日本林の隣の「ウイグルイスダンニ」(後の鶯谷)。これは分からない。ウイグルは良いのだが、イスダンニはわからない。これは跡形もなく失われた部族であろうか。

今の北千住のちょいと先に行くと「金町かなまち」がある。

どうせ「金(キム)さんが住んでたから金町とこじつけるのだろう」とお思いだろうが、真実は違う。これは「カナマト」からきているらしい。「カナマト」は古くは「乱心カナマト」と言ったらしいが、それでは「カナマト」とは何かというと、もはやわからない。

わかっていることだけを正直に話しているのでございます。

2.4 上野のはなし

これは、少し怖い話である。上野は正しくは「餓え野」である。

その前に、まずは一つ先の御徒町の由来から。一つ先とは、ウイグルイスダンニから上野を飛び越して一つ先、という意味である。

しかし、ウイグルイスダンニや日本林などと違って、「おかちまち」という地名は古江戸ではなく、穢土となってからの地名である。

穢土には、もはやまともに住み着く者もなく、村もなく家もなく、そもそも立ち入ってはまずいのであり、荒れ果てた忌み地と成り果てていたその頃、チーマーが「ここはあたしの土地だからね」と言ってその地に幌を張り居座ったのです。その噂を聞いて、人々はあきれて、その地を「ちーま」と言うようになったと。

やがて、類は友を呼ぶというのでしょうか、チーマーがもう一組、そこに居座ったので、人々はもっとあきれて、その地を「ちーまちーま」と言うことになります。しかし、誰も住みたがらない忌み地ですから、「出て行け」とは言いません。

そのうち、もう一組。そこで、その地は「ちーまちーまちーま」。

やがて、五組になると、多少やけになって「ちーまちまちまちまちーま」。これが、七組、十組となると、もはや自分で言ってても数えられないのでございます。

そこで、しかたなく「多か!ちーまちまちまちま」となり、それが訛って「おかちまち」。これが、御徒町の本来の由来で御座います。

もちろん後の江戸の頃、家康公は土地の古老からその話を聞いてご存じでしたが、だからこそ、「もはや語ってはならぬ」ときつくお達しの上、その土地を御徒衆の屋敷町としたのです。やがて人々が自然に、そこを「御徒町」と思い込むのを待ったので御座いましょう。まことに、気の長いことであります。しかし、無理矢理のこじつけをすることもなく、偽りを流すこともなく、ただ環境を整えるだけで望む結果を得るとは。さすがは御屋形様と言うしかありませぬ。まことに見事でござります。

さて、江戸時代から時代を遡って穢土の頃、そこから更に遡って古江戸の頃、即ち「多かチーマ」の名前が生まれる以前の繁栄の時代、そのあたりは小さな店がごちゃごちゃと建ち並ぶ、それはそれでそれなりに栄えた地域でした。ウイグルイスダンニ(鶯谷)からその方角をみると、夜などは特に、草の海のような暗い野原の向こうに夜店の光がチラチラしていて、風向きによってはアセチレンの臭いが感じられそうな程に、近くに見えます。そんなに距離はないはずです。夜歩けと言われれば確かにちょっと嫌ですが、翌朝まで待って日が昇ってから歩き始めるならば、すぐに行き着くはずの距離です。誰もがそう思うのですが、そうではないのです。原野と言うほどの規模はなく、たかが野原に過ぎないはずなのですが、その「たかが野原」は、「餓え野」と呼ばれる「怖ろしの地」だったのです。

餓えると言っても、たいした距離はないのですから、食べ物どころか水も飲まなくたって平気なはずです。がまんすれば、行き着くはずです。 それが、行き着かないのです。不思議なことではありますが、どうしても行き着かなかったのです。

勇敢な、もしくは世の中をなめた何人もの冒険者が試したのですが、みんな死にました。それならばと、勇者が部隊を作り、綱をひっぱって少し進み、そこに一人残してそこからまた綱を持って進みと、これを繰り返して用意万端の進軍をしたこともありました。けれども、腰の辺りの高さの草が生えているだけに見える見通しの良さそうな野原は、奥に進んで行くと草はその高さを増してゆき、しだいに胸の辺りまで、首の辺りまでと高くなっていき、遠浅の海を沖に歩いて行くような心細さが襲ってきます。海ならば泳ぐことも出来るのでしょうが、相手は草です。やがて勇者達は、背丈の何倍もの高さの草が茂った全く見通しの効かない薄気味悪い場所へと、沈んで行くことになります。ぼくたち勇者だもん、とばかりに元気よく「誰かさんと誰かさんが・・・」と歌っていた進軍の声も次第に小さくなり、今では御詠歌のよう。

おそらく、この辺りは僅かの勾配で窪地になっていて、それなのに草は国土地理院の飛行機を欺くためであるかのように、その先端の高さを揃えているのでしょう。草もこのくらい背丈が高くなると根元はそれ程密集しているわけではなく、歩くだけならば苦労はしないのですが、とは言っても見通しはろくに効かないのです。まあ、夏の日本の低山くらいの視界なのですが、視界を阻んでいるこいつらは樹木などというものではなく、たかが草なのです。草を見上げながら進む部隊の面々は、自分たちがだんだんとちっぽけな存在になっていくような気がして、気持ちもどんどん落ち込んでいきます。それでも何とかへこたれずに進んで行くのですが、その先には、飢え死にしたとおぼしき死骸があちらにもこちらにも転がっているのです。そして頑丈なはずの綱が頼りなくも突然切れてしまったり、慌てて切れた綱を結んで先に進んで行くと奇妙な溝が行く手を遮っていたり、なにやら嫌な雰囲気のことが続きます。そして奇妙にして思わせぶりな溝をいくつか越えて行くと、今度は、こんな小規模な地形のはずの所に生意気にも、溝などという規模ではなく、ちゃんとした枯れ沢が出現して行く手を遮っています。ここからは、沢と尾根の入り組んだ地形になり、背丈の何倍もある草に視界を阻まれての、れっきとした道迷い遭難のようなもの。

尾根を登って行けば、草の上に首を出して現在地を確かめられるのでしょうか。しかし、尾根を登って行くと、足下は枯れ草と枯れ枝ばかりになり、落とし穴のように埋まってしまいます。

そのうち、中継点に残した勇者の「戻ってこーい!」という叫び声があらぬ方角から聞こえてきます。綱を頼りに引き返そうとするのですが、来たときには無かったはずの沢があり、綱はその沢を横切っています。何と忌々しい溝なのでしょう。それでも、なんとか沢を越えて行くと足下には枯れ草と枯れ枝がしだいに深さを増してゆき、今では腰のあたりまで潜ってしまう枯れ草の中を、雪山をラッセルするようにかき分けて行かなければ、先に進めません。そして、枯れ草に埋まってしまっている綱を手探りでたどって行くと、その端を握っているのは乾涸らびきった見知らぬ死骸。人間の世界へ戻る頼みの綱は、そこで終わっています。

パニックに襲われた勇者のひとりが

「俺たちを殺すつもりか!」

とシャウトすると、

「最初から殺すつもりだと申し上げたでしょ?」

と餓え野が答えてくれるわけではないのですが、勇者達にはもはや冒険者の心意気はなく、すっかり遭難者の気持ちになっています。尾根づたいに上がって行くと枯れ草に埋まってしまい、尾根づたいに降りて行くと、困ったことに尾根はすぐに沢に行き当たってしまいます。それではと、沢づたいに歩いて行こうとすると、道迷い遭難でお決まりの涸れ滝が行く手を遮ります。パニックに支配され彷徨い歩く勇者達のパーティーは分裂して散り散りになってしまい、ひとり、またひとりと枯れ葉に埋まりながら静かに消えて行きます。

この「尾根と沢地形」から抜け出せたのは、僅かの人数だけでした。それなのに、やっと抜け出したそこも、ようやく平らな地面になったそこも不気味な地であり、次々に怖ろしいことが降りかかってきます。なかでも怖ろしかったのは、引き返しているはずなのに、草の背丈がどんどん高くなって行くことだったのです。そして、平らな地面と言っても、やはり奇妙な溝 (fossa) が思わせぶりに横たわっているのです。

異様に高く背丈を揃えた草(これを草と呼んで良いものなのか)を見上げると、草の隙間に僅かに切り取られた空が見えます。空は宇宙に手が届きそうに青く、トンビが1羽輪を描いています。あの、あまりにも高い青空を、そして不思議なほど広いあの空を飛ぶトンビの目を借りて眺めることができたなら・・・・・・餓野は相変わらずちっぽけな原っぱなのでしょうか。トンビの目で見ることが出来たなら、ちっぽけな原っぱは、ちっぽけな原っぱに過ぎないのだから、必ず抜け出せるはずなのに。でも、こんな変なことばかり起きる盆地が現実ならば、そもそも、盆地の外の世界も現実なのかと。あの忌々しい「尾根と沢地形」から枯れ葉に埋まらずに抜け出せたのに、この平らな地面もまた、枯れ葉の上の見せかけの地面だとしたら。外の世界に抜け出せたとしても、そこも、枯れ葉で埋められためったやたらに大きな溝の上にあるのだとしたら。どういうことなんでしょうか。いや、そんな地学的議論はどうでも良いのです。兎に角、ここから抜け出したいのです。二度とこんなことはしないから、ここから抜け出したい!

いったい、こんな変な所に来てから何日経っているのでしょうか。それとも、出発したのは今朝のことだったのか。それすらも分からなくなっています。

気のせいでしょうか。さっきまで、羨ましいほどに明るかった空は、少し暗くなっています。トンビは、もう居ません。夕暮れが近づいています。こんなところで夜になったら!

ほとんどの勇者は、最後には叫びながら当てもなく走り回り、二度と帰ることができませんでした。かろうじて戻ってきた勇者さまも、血の気のない顔で表情を失った目を無意味に見開き、草地から出て来るやいなや、へたへたと座り込んでしまいます。もうあんな所には二度と行きたくありません。絶対に行きたくありません。勇者などという称号はまっぴらです。 要するに、餓え野はだれも越えられないのです。

イスダンニから御徒町に行くには、ぐっと北側に回り込む北方経路か、ぐっと南に回り込んで南方経路をとるか、どちらかしかありませんでした。まっすぐには行けません。まっすぐ行こうとすると、とてつもなく、果てしなく遠かったのです。

そのようなわけで、イスダンニから御徒町の店の賑わいが見えたとしても、そこはアメリカのように遠く、人々はイスダンニから御徒町の横町の遠さを嘆いて、そこを「アメリカ横町」と呼ぶようになったのでした。

アメ横の由来である。

2.5 もうひとつ恐ろしい話を

深谷甚左右衛門は古道具屋であった。

ある夜のこと、そろそろ寝るしかないかと、ひとり寝間に戻り着替えも済ませ、手際よくそれを畳み、枕元においた水差しから湯飲みに汲んだ水を半口ほど飲んで、布団の横に座っております。行灯の灯りはゆらゆらと、ふすまに影を映しております。なにを考えるともなくそれを見つめて居りますと、声が。

「ろくな品はないな」

古道具屋としては腹の立つことを言われたわけですが、そんなことよりも、甚左右衛門を驚かせたのは、その声の近さ。耳元ではないのですが、それはもう、息がかかるほど近く、などという半端な迫りかたではなく、顔に口をひっつけてしゃべったのではないかと、そのくらい近くから声がしたのです。その夜はそれだけでした。

次の夜は、いきなり

「ろくな品はないな」
「こんなガラクタ、いくらで値がつくのやら」

今度も、やたらに近くから、どちらかというと顔の下側左寄りか。

次の夜は、

「たいそうな値をつけているが、ありゃあ偽物だ」

今度は、右側か。

こんなことが重なりまして、甚左右衛門は神経が疲れてしまったのですが、まあ、道具などというものは、年を経ると色々と憑くこともあると聞いておりましたので、そんな声は声としてほっておこうかと。

ところが、夜だけでなく、滅多にひやかしの客も来ない店に座って表通りなど眺めている昼の日中にも、声が聞こえるようになったのでございます。

「二束三文てぇ言ったって値がつくだけましってもんだ」
「お前なんぞ値もつかねぇ」

そんなことを言ってるかと思うと、今度は

「幻聴!幻聴!」

などと。 どの口がお言いだいってもんで、 うるさいったらありません。まことに、困ったことでございます。

さて、そんなある朝、顔を洗って鏡を見ると、ほくろが。

「はて、こんな所にほくろがあったか」

そして、気になって夕方に鏡で調べると、ほくろが移動しているのです。そう、皆様お気づきのように、声の正体はほくろですね。甚左右衛門さんも、すぐに気づきました。正体が知れると、ほくろの罵りは、もっと性悪できつくなってゆきます。そして、この手の話で良くあるように、ほくろを削いでしまおうかと包丁を持ち出すのですが、甚左右衛門さんの場合、歳のこともあって痛みにも弱くなっております。逃げ回るほくろを追って顔面血だらけになるのも嫌なので、包丁を置きまして、まあいいかと開き直り、ほくろに話しかけたのです。

「こんなつまらない顔だが、気に入ったならゆっくりしていったら良い」

口の悪い、威勢のいいほくろにしては妙な間があって

「べ、べつにあんたの顔が気に入っているわけじゃないんだから」

それからは、相変わらず口は悪いのですが、いろいろと話もするようになり、なぜか客もだんだん増えて来て、店は大変な繁盛となったのであります。

「ところで、おまえさん、どっから来たんだい」

「もとから、あんたにひっついてたよ」

「はて、前はほくろなんぞなかったはずだが」

「見えねーところだい」

「どこだい」

「・・・・・・」

「おまえさん、赤くなってないで言ってみな」

「し、しりっぺた」

「そうかい。でも、なんで、そんな赤くなってんだい」

「あ、あのさあ、もとは尻に居たんだけど・・・・・・唇のちかく、行ってもいいかなあ」

などという、聞いているこっちが恥ずかしくなる。仲の良い人たちでございます。

さて、なぜ客が増えたかというと、甚左右衛門さんはほくろのことは隠していたつもりですが、ほくろの場所が毎日変わることに気づいた客がおりまして、そのうち、知らないのは甚左右衛門さんだけ。全古江戸中のうわさになっていたのです。そんなわけで、甚左右衛門さんの「生きほくろ」、甚左右衛門さんの店のあった付近は「いきぼくろ」と呼ばれるようになったのでございます。

言うまでもなく、後の「池袋」である。

2.6 西洋

西洋陣営は King Arthur が大将である。

正式には何という肩書きであったのだろうか。東方王とでも名乗っていたのだろうか。そのように称していたかも知れないが、それはそう名乗っていたと言うだけのことであろう。正式に認められていたわけではあるまい。それでは、そもそも誰が「正式に認める」権威をもっていたのかというと、本当のところそんなものはなく、それが古江戸の姿である。

King Arthur は人気者であった。古江戸には、お調子者が多かったのである。

古江戸の人々は、最初は「キングオーサ」という名前と思っていたらしい。そこで「きんさん」とか「キングさん」とか、はては「きんぐぉーさん」とか勝手に愛称をこさえて呼んでいた。当時の錦絵も残っている。繰り返しになるが、古江戸にはお調子者が多かったのである。そして不思議なことに、後の時代の江戸においても、お調子者が多かったのである。

さて、古江戸に英語熱が流行した。流行病ではない。流行病のように、英語趣味がはやったのである。いわゆる国際化である。しかし、国際化に誤解はつき物である。

「キングオーサ」とは、英語ではどんな意味の名前なんですかと尋ねて、「キング」は王のことであると知る。なんだ、「キングオーサ」という名前ではなく「王オーサ」なのかと理解する。ここまでは正しい。しかし、それを人づてに聞いて、また、その生半可な知識を得意げに人に語るうちに、

はてな、「王・オーサ」では順番が変だぞ、「オーサ王」だから「オーサ・キング」であろう

などと考えてしまう。くどいようだが、古江戸にはお調子者が多かったのである。そして、江戸時代どころか、明治の世になり東京と名を変えた後の時代になっても、お調子者が多かったのである。九州南端で火山灰を浴びながら芋を洗っていた薩摩のがさつ者連中をもお調子者に変容させるとは、全くもって恐ろしい土地である。

さて、何の話であったか。そう、King Arthur である。後に、King Arthur はキリスト教西洋陣営の総大将として、きらきらと眩しく輝く甲冑に身を固めた騎士たちを率いて陣を敷くことになる。King Arthur が陣を構えた付近は、後に「オーサキング側」と呼ばれるようになり、やがて、その由来も忘れ去られ、「おおさき」となり「大崎」という字が当てられるという、大崎名付けの物語でございます。

2.7 英語趣味

King Arthur が合戦のおりに陣を構えたのは現在の大崎の辺りだが、King Arthur の宮殿は五反田にあった。敬虔なキリスト教徒であった王の宮殿の入り口には "Under God" と看板のごとく大書きされていた。"Under" は「下に」、"God" は「神」と知れば、それが「下神」では変だ「神の下」だろうというので、「God Under」と誤用され、後の五反田となる。火を見るより明らかである。

「またこじつけか。いいかげんにせい!」などと非難してはいけない。ここには世界史的な大問題が登場しているのである。即ち、「神の直参」であることを宣言する

"Under God"

という文言である。勘太縁派から見ると、これは実に怪しからん思い上がりなのである。勘太縁派の見解では、神の直参は教会であり、世俗の権力は教会を通じて神の下に立つべきなのである。

これは深刻な争いに発展しかねない問題であった。しかし、幸か不幸か古江戸には「仏教陣営」や「神道陣営」といった勢力もあり、クリス徒陣営には "Under God" 問題を深刻な対立にまで発展させる余裕はなかったのである。

さて、英語趣味は古江戸の大流行であったが、西洋陣営はUnder God が五反田になるのも困ると、英語の学校を作り ABC を教えた。この学校があったところは「えーびーすぃー」と呼ばれ、後の恵比寿となる。

見事である。「えびし」ではなく「えびす」であるところが見事である。 いまだに仏教伝来当時のインド趣味の教養に引きずられ、無理矢理、五十音などと称して縦横に並べ「さ行は、さしすせそ」(「さすぃすせそ」ではなく)などと言っているから、「彼女は海岸で海産貝殻を売ります」という簡単な英語さえ言えなくなるのである。「えびし」としなかった古江戸の人たちは偉いなあ。

英語趣味は教養人の領域として、その周辺には、もはや西洋とは直接関係はないような妙なものにあこがれた者どもが、たむろするようになる。それが顔黒ガングロ族である。顔黒族がたむろした辺りは、顔黒と呼ばれていた。後に、顔黒族が消滅すると、「顔が黒いわけがない。黒いのは眼であろう」というので「眼黒」という字があてられ、時代が下って「目黒」と書かれるようになると、目黒では「ガングロ」とは読めないこともあって、「めぐろ」と呼ばれるようになる。

さて、大崎、五反田、目黒、恵比寿まで解明されると、次は渋谷だが、これは英語人とは関係が無く、ここに住んでいたのは鶯谷の「ウイグルイスダンニ」と同様、失われた謎の種族「シブダンニ」である。もちろん、これが訛って「シブだに」となり、「しぶや」と読まれるようになったのである。

次は「はらじゅく」。これは、「神 に入るハーラジュク」という意味であることは伝わっているが、何語なのかわからない。西洋語でないことは確かなので、シブダンニと同じく、西洋陣営の影響は薄いと思われる。

一方、西洋陣営の恵比寿から、渋谷、原宿を飛ばして次の代々木は 、King Arthur が若い頃に屋敷を構えていた荘園である。その頃、Arthur はまだ King ではなく、騎士であった。騎士と言っても、正式な騎士、Sir の称号をもった騎士である。Sir Arthur が後に王となると、

成人した Arthur の錦絵は
「キング・オーサ」、
少年の姿の Arthur の錦絵は
「サー・アーサ」

と区別して売られるようになった。 オーサがアーサになっているのは、サー・オーサ では滑稽な響きがあるからであろう。王となったからには「キング」をつけなければ申し訳ないとの妙な遠慮から、 「サー・キング・アーサ」 としたこともあったようだが、これは西洋人に「それは変である」と笑われて、直にやめたらしい。しかし、「サー・アーサ・キング」 となると、西洋人もあきれて何も言わなかったようだ。まあ、Sir Arthur、 the King of the Far East Islands とでも解釈すればなあ、といったところか。

そのようなわけで、若年の Sir Arthur の荘園は「サーアーサキング」と呼ばれるようになり、それが訛って「サーサキ」となって「佐々木」と書かれる。なぜかそのうちに「よよぎ」と読まれるようになった ()。

こうなると、「新宿」もたいそうな由来があるとお思いだろうが、「新宿」は「しんじ君」が訛っているだけ。断固として、それだけである。「しんじ君」は単なるそこらに居る「しんじ君」である。だいたい、新宿から先に行くと畑しかないのだ。そんな所にたいした由来があるわけがない。ところで、このようなちゃっちい地名は「新宿」の他にも「四谷」がある。これは「よっちゃん」である。さすがに「よっちゃん」にたいそうなものをこじつけようと試みる愚か者はいないであろう。「しんじ君」もおなじことである。

英語趣味と言えば、後は「Miss Orchard」と「Tabatha」であろう。

Miss Orchard は美しい令嬢であった。そのサロンに招かれることは、英語趣味人にとってのあこがれであり、そのためにも熱心に英語を学んだ。その辺りの話は略すが、Miss が令嬢を意味することは知られていた。したがって、「嬢おーちゃーど」ではなく、「おーちゃーど嬢」であろうと、「おーちゃどみす」。後の「お茶の水」である。「Miss」が「Ms」に変わっているが、それは単に訛ったからである。

「たばさ」はもちろん、後の田端。

2.8 椎名氏の陣営

椎名氏は、神道では東日本最高位の神官であった。そして、椎名氏率いる神道陣営が西洋勢力と、古江戸を滅亡に導く絶滅戦争を戦ったのである。

神道は、もともと他宗教に受容的な日本にあっても、特に寛容な宗教である。そもそも、宗教と言って良いのか疑問であるほどに寛容である。この神道勢力が西洋キリスト教陣営と戦うはめになったとは、まことに歴史は皮肉なものである。

椎名氏とKing Arthur は、顕教、密教、勘太縁大聖堂派、宮廷派、これら四者相互の関係に比べても、良好な関係にあった。そもそも、椎名氏自身、英語趣味の影響下にあったし、また、King Arthur はと言うと、神道の神官の武術に一角ならぬ関心を示す、いわゆる剣術おたくであった。当時、集団の戦での弓、槍、長刀はともかく、少人数の斬り合い技を追求する剣術となると、神主達にかなうものは無かったのである。

King Arthur よりももっと熱心に剣術を学んだのは、王女カトリーナである。カトリーナ姫は女ながら西洋騎士の洗練された剣術の名手であったが、そのカトリーナを引きつけたのは、神道剣術の「フツ」の技だった。

今ではどのような鍛錬でこれを身につけたのか分からなくなってしまっているが、基本の原理は「太刀で体を切る先に心をフツと切る」技と聞く。「心を切って殺す」ことはできない。しかし、相打ちも厭わぬ覚悟で魂魄を込めた太刀を切り下ろす瞬間、その瞬間にフツと心を切られると、その一瞬切り下ろす太刀は、もはや惰性で動く手の運動にすぎず、相打ちにもならず弾かれてしまうらしい。そして、そのまま実際に切られ、フツによる一瞬の間の死が本当の死として実現してしまう。

どのようにフツと切るのか。これは分からないが、おそらくは、相打ちを仕掛けるなどという覚悟のかけらも見せずに、相打ちの間合いに入るのであろう。いかに「相打ちも厭わぬ覚悟」で踏み込んだとしても、やはり、それは覚悟にすぎない。一方、何の気負いもなく、相打ちを避けられない間合いにふっと踏み込むのは修練の要る技だが、これを仕掛けられると、その瞬間、「覚悟した相打ち」は突然「現実の相打ち」となる。これが「フツによる一瞬の死」を引き起こすのであろう。

ふつとでて ふつとおろせや このたちの
さきにやどりし ふつのしのかみ

カトリーナはひたすら形稽古を繰り返し、この技を極め免許皆伝となり、達人と称えられるようになる。カトリーナは最初は西洋人に教えるため道場を開くのだが、英語趣味とカトリーナの美貌に惹かれた古江戸人が押しかけ、カトリーナの教える剣術は「カトリーナ神道流」と呼ばれることになる。いや、この話はこのくらいにしておこう。

椎名氏はカトリーナを我が娘のようにかわいがり、King Arthur も、カトリーナが剣術の修行に伴い神道の儀式に近づいても、叱責することはなかった。それどころか、King Arthur 自身、神道にはかなり詳しくなっていたようである。しかし、これが後の悲劇を生むことになる。異文化とうまく付き合って行くということは、まことに難しいのである。

2.9 神道

神道はよく分からない。

「おほげつひめ」
あまりにも重要な神であるが、それにも関わらず、いかなるホラー映画も敵わないほど、登場するといきなり殺されてしまう。
吉備の「温羅ウラ様」も不思議である。
「ウラー」と言うくらいだからロシア人だろうとお思いだろうが、そうとも限らない。

ロシア人と言えば、第二次世界大戦中、スターリングラードでの包囲解除作戦を指揮した、ドイツ第4装甲軍司令官ホート将軍の妻タタライスキーは、生粋のロシア人である。その娘ホート・タタライスキーは神道に惹かれ、後に南紀新宮の神社で巫女となっている。ホート・タタライスキーがシベリア鉄道で日本に向かう旅路では(その時ドイツはすでに敗れていた)、ドイツ系の、しかも、敵将の名「ホート」がついていたのではまずかろう、ということで「ホート」は略してタタライスキー姫(King Arthur とArthur King の逆転形を当てはめるならば、姫タタライスキー)と名乗っていた。純ロシア人巫女さんと言っても良かろう。

南紀新宮といえば、新宮はロシアとの関係が深く、徳川江戸時代後期には、函館経由でロシア貴族の娘を密かに招き入れ、ロシアの血を日の本に取り入れようと試みたらしい。これが「あずみ伝説」(碧い眼、白い肌で、とほうもなく剣術が強い、あずみという名の少女のお話)の元となったと思われる。一説によると、将軍家にもロシア系の血は入っているという。これは神道とは関係ない。しかし、巫女さんは美しい。ロシア人の巫女さんとなると、それはもう、なんというのか、その・・・・・・

だから、神道は素晴らしい。神道は素晴らしいのだが、それはさておき、「あずみ」と言うならば安曇野である。ここでは遠い昔に征服戦争が行われたらしい。色々な物語が伝えられているのだが、敗者の歴史は正しく伝えられないものである。ここまで遡ると、その先は「ウラ様」まで行き着くのであろうが、お気づきだろうか。伴天連のポルトガル、少年使節のローマ、八重洲殿のオランダ、三浦按針のイギリスと日本史を賑やかす国々と対照的に、ロシアの関わりは歴史から抹消されるのである。妙なことである。

それはともかく、美貌のロシア娘が登場しないのでは、つまらない。つまらないので止しにして、神道の話に戻ることにしよう。

しかし、戻ったところで、神道は分からない。

「このはなのさくやひめ」、 「このはなのちるひめ」

どちらが偉いか。有名なのは「このはなのさくやひめ」だが、どちらが偉いかを問うのは愚問であろう。花は咲いて散り、散って咲くのである。「どちらが偉いか」は人間にとってどちらが都合がよいかを問うているだけであろう。いきなり殺されてしまう「おほげつひめ」。名前も短いし登場時間も短いが、それがなんであろうか。神が死ぬのは人の視点に過ぎない。名前が長ければ偉いというものではない。「偉い」というのは人の視点である。だから人と関わると名前は長くなる。 「うら」に至っては名前は短すぎて「さま」をつけないと収まりが悪いくらいだが、それがなんなのだ。そもそも、神道は人のためのものなのか。神道は分からない。