Remarks

ソーニャ

「見ていたそーな」であるべき所を,ロシア娘だからと言って「見ていたそーにゃ」とするとは,全くくだらない言葉遊びである,くだらん言葉遊びは止しにせよ! と切り捨てるのは早まった判断だと岩猿を獲ない。そのような無慈悲な切り捨てをするものは,残りの人生において,「言わざるを得ない」という言葉に接する度に,その心象風景の中を微かな岩猿が飛び回ることになるであろう。これが更に悪化すると,「おそらく」という言葉が 御空駆おそらく と聞こえるようになってしまう。これは辛い。兎に角,畢竟無の内に単なる言葉より心不相応行が生起することにこそ,古江戸物語の自生が存するのである。即ち,ここで「そーな」を「そーにゃ」としたことにより,後の章にロシア娘「ソーニャ」さんが登場するのであり,また,そのソーニャさんは,このような訳の分からない漢語を振り回す理屈っぽいお嬢さんなのである。

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Yo! Yogi!
代々木(Yoyogi)という地名の由来として,アメリカの黒人がヨーガ行者(Yogi)へ呼びかけているのだ,という説があることは承知している。しかし,当時の北米大陸には未だ黒人は居ないのである。

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勘太縁派と宮廷派
顕教と密教の関係と異なり,勘太縁派と宮廷派の相違は古江戸独自のものである。勘太縁派は,布教には熱心であるものの教義には極めて厳格であり,一方,King Arthur の宮廷派はかなり情緒的である。両者の最大の対立点は,神と人との間に教会が立つことの必然性にあり,この点に関しては,後の歴史におけるカトリックとプロテスタントの対立につながる側面をもつ。しかし,宮廷派と後のプロテスタントとの決定的違いは聖母信仰であり,宮廷派は聖母信仰派と言えそうなくらい,聖母マリアを重視していたのである。これにより,宮廷派のキリスト教は古江戸でもてはやされたのであろう。女神さまを欠いていたのでは日本では受け入れられるはずはなく,明治になってからのプロテスタントの布教が今ひとつ流行らなかったのも,無理はないのである。

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さるたくん
「さるたくん」とは,どうやら「猿田彦」,つまり「ホドブクブクナシ」のことであるようだ。ところで,猿田彦の別名として「ホドブクブクナシ」があるという説だが,これにはいかなる根拠も無く,また,そのような説は存在しない。そもそも,「ホドブクブクナシ」なる言葉は,1950年代にアメリカの広告会社が,「コカコーラはうまいぞな」と様々な国の子供がそれぞれの言語で言っているという趣旨の広告において,日本語で何と言うか調べる手間を惜しんでいい加減にカタカナを並べてこさえた言葉である。まあ,言われてみれば「ブクブク」と泡っぽい響ではあるのだが,これは偶然であろう。せっかく「ブクブク」と来たのに「ブクナシ」では何のことか分からぬ。せめて,「ホドブクブクヌシ」なら何かと好都合だったのであるが,真に残念である。

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裳の紐

正直なところ,せっかく目の前に「あめのうずめのみこと」ご本人が居るのだから,噂に聞く

裳の紐をほとに垂らし

とは,どこまでなさったのか聞きたい気持ちは理解できる。だからといって,本当に聞いて良いものかは躊躇うはずなのだが,彼は聞いてしまったのである。

「あめのうずめのみこと」のお返事は,少しずれたものであった。

「だってね,紐をきゅって絞めてると,おへその辺りがプクッてなるでしょ? だから紐ほどいて,かっこよくスッとしたラインにして」

「あっ,余計なお肉が紐ではみ出しちゃうってことですね」

「そうじゃない! 違うのです! そうじゃなくて,これは一般論! わたしのことじゃなくて,誰だって少しは,だから,余計なお肉なんかついてなくても,みんな紐で絞めてるとそう見えるのです。ねっ,触ってごらんなさい。余計なお肉なんかついてないから」

「えーと,うー,なんというのか ・・・ 求肥みたいですね」

「そうでしょ! 花園まんじゅうのクリームあんみつに入っている求肥! とても薄くてすべすべしてるでしょ?」

などという,「とても薄い」かどうかはともかく,役立たずにしてみだらな会話(行為も含む)が繰り広げられたのでした。

真に困ったことである。

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三女神
三女神と言うならば,根古名三女神(チ,ミ,タマ)もいらっしゃるわけだが,猫は大切であるにも関わらず,日本の神話には登場しない。しかし,木や草は「根」に支えられているのであり,また,「猫手がかき回す」という歴史観もある。大切だからこそ,猫は表面には現れないのである。

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インド趣味 としての「そこ」
インド趣味としての「バカ」の解釈は,喩えになりますが,港と考えるのが良いでしょう。大切なのは二重性です。港は「そこ」に入ってくる舟を嵐の海から守ってくれるのであり,同時に,生きている間の意識の世界という陸地から見るならば,果てのない未知の大海への入り口でもあるのです。不可思議な受容というのは,港としての受容なのです。

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未知の大海への入り口
それならば,死によって意識の世界という陸地から離れ大海に乗り出せるのかというと,それは無理でしょう。舟が無いので溺死するだけです。溺死したあげく,再び陸地に上陸することになります。ここでの「舟」は「嵐の海から港に逃れてくる舟」とは意味が異なるのです。「純粋神々モード」だけでは,二重性を捉えることはできても,この「舟」を用意することまでは,できないのでしょう。このあたりに,修験道が登場してくる理由があると思われます。

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みたまち
「みたまち」は「ミー・タマ・チー」という三女神の御名に結びつく。その結果,慶応大学(ついでに普連土学園)には美女が多いのである(男は三田の色魔と呼ばれるにせよ)。

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 肉付けと衣

ここで「肉付けをすること」から「魅惑的な衣をまとわせること」へ表現をすり替えているのだが,これで良いのだろうか。多くの場合,魅惑的なのは衣ではなく,それを脱いだとき現れる肉付けされた身体であろう。こうなると厄介なのは,聖母というテーマである。いや,この場合は,「衣を脱いだ女性」として不届きな妄想をする輩が問題なのではない。不届き者はどこにでもいるが,不届き者は不届き者であり,それ以上の力を得る心配はない。厄介なのは,「母」という情緒なのである。

子孫女のお出かけにおいて,「あめのうずめのみこと」が「リープフラオミルヒ」を注ぎながら笑っていることに対し,カトリーナ姫が妙に突っかかったのだが,これは,二人の間でちょっとした騒動が起きていたためである。それは,単に日本語が母国語でないという以上に言語表現能力が独特であったカトリーナが,お色気過剰の「あめのうずめのみこと」をたしなめるつもりで,「無原罪の御身籠もり」について説明したときのことなのだが,カトリーナは

「マリア様はお肉に依らずに身籠もられたのです」

と言ってしまったのである。もちろん,「あめのうずめのみこと」は遠慮もなく笑い転げることになる。カトリーナはなんか変なことを言ってしまったと気づき,狼狽する。そこに,止せば良いのに「あめのうずめのみこと」は

「お肉に依らず身籠もられたけど,お肉によってご出産! 脇の下からポロッとじゃなくて,ちゃんとしたご出産! それからお肉によってお育てになり,具体的にはリープフラオミルヒ! お肉によってリープフラオミルヒ!」

と「お肉」を連発して追い打ちをかけたのである。まったく,止せば良いのにどうしてこういうことをしてしまうのか。それ以来,「リープフラオミルヒ」は危険な言葉になっていたわけである。

さて,これからわかるように,「リープフラオミルヒ」という言葉の危険性は,それを日本語で「愛する・女性・乳」と訳したときの「乳」のひとつの意味,即ち,パッケージに在るのではなく,中身の「ミルヒ」,つまりミルクと正しく解釈した場合の「乳」に潜んでいるのである。

母としてのマリア,つまり聖母マリアは何かと厄介な面をもつのである。それには

  1. マグダラのマリア
  2. 不公平だ!
  3. 教会外のマリア

という面もあるのだが, 本当の脅威となるのは「お肉による出産」をした聖母が原始の空気のような情緒と結びついた場合なのである。そして特に,農耕系の古の空気と結びついた場合が危険なのである。

これは「あめのうずめのみこと」独特のご説明なのだが,概略,以下のようなことである。

そうですよ,確かに羊さんたちを飼ってても循環しますよ。でもね,羊さんが夫婦生活して出産して,そのお子達が夫婦生活して出産して,と循環してもね,それは生きていないと無理。だから,ほのぼのしてるでしょ。けど,麦さんたちの循環には死が間に入ってくるんです。わたし,神だから,死に取り込んで生むんですよ! すごいでしょ?

まあ,はったりであろう。はったりなのだが,実のところ,これは厄介だったのである。

「厄介だった」と過去形である理由は,今となっては本当に厄介なのは「特に農耕系の」などという,すべてを共通の経験の世界に基づいて解釈しようとする姿勢だからであり,この破壊力に比べれば,「バール神との闘争」も古き良き時代の物語となってしまったからである。

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マグダラのマリア

マグダラのマリアがパッケージの魅力たっぷりに聖母の隣に描かれていても,それがパッケージの魅力である限りにおいては,大して危ないものではない。そのような不届きなマグダラのマリアは,悔い改めることになるのである。そんなものを危険視するのは,クレーマ以降の神経質な審問官だけである。

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不公平感

不公平感は,肉を鞭で引き裂かれ十字架に架けられた御子息と比べて(それから,その他の聖人たちと比べて),全くの無傷での聖母被昇天が優遇されすぎということであろう。

しかし,本当のところ,自分の肉が引き裂かれることと子の肉が引き裂かれることと,母にとって辛いのはどちらなのだろうか。誤解してはいけない。母にとっては,二歳の幼子ではなく三十過ぎの「おっさん」であっても,(たぶん)同じなのである。「胸に突き刺さる悲しみのペーパナイフ」の威力は凄まじいのである。ゲッセマネの苦悩を経てと雖も決断をして受け入れる苦しみと,決断も何も向こうから勝手にやって来る苦しみとでは,そもそも比較不可能であり,不公平とは言えそうもない。ただし,決断という点について言うならば,受胎告知の際にそれを受け入れる決断をしているのであるが,それは「決断もなにも向こうから勝手に襲ってくる事態を受け入れる」決断という,曰く言いがたい決断なのであろう。

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教会外のマリア

現代でもなく,古江戸でもない多くの時代と地域では,大人になるまで生き延びる子よりも幼くして死ぬ子の方が多かった。そして,その中には,その死に母が関わっている「許しの求めようがない」場合も多かったのであろう。教会に許しを求めることはできない。なぜならば,許しを得られたところで社会情勢と天候次第では,再び繰り返さなければならないのだから。気の毒な母は,教会外のマリア(黒いマリア)に[許しを伴わない]慰めを求めたのであろう。

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溶け込む心情

「神の前に立つ」ならば「神」がなんであるかは大問題なのだが,「溶け込む」心情においては「何に溶け込むのか」はどうでも良いらしいのだ。黒髪の乙女が「なむなむ」と祈る世界があるとは,「宗教」という常識からは想像も出来ぬことであろう。「なむ阿弥陀仏(ナーモ阿弥陀仏)」ならば「阿弥陀仏に帰依する(を頼る・を信じる)」なのだが,「なむなむ」ではいったい誰を信じているのか不明である。水に落ちて「助けて!」と言うのとはわけが違うはずだ。「助けて!」はとりあえず相手は誰でも良いから「助けて!」なのである。しかし,相手を指定せずに帰依するとは,「黒髪の乙女よ,あまりにも人が良すぎませんか?」と心配になる。

ついでに言うならば,溶け込む心情の猛威に曝されている点ではインド趣味も同様である。「色即是空」から「宇宙に溶け込む」気分に行ってしまっては・・・えーと,それは何と言うのかアートマンかなんかとの一体化で・・・・・・

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猫の背骨
「猫」といっても,彼女の場合,大型猫科の動物「ピューマ(Puma)」がふさわしいようだ。

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 取り巻き達の戦術
それでは,どのようにして「ファンクラブ」の御取り巻き連中がナルシスくんを追い詰めたのかという問題だが,これについては,連中の中でも年期を経た奴らが初心者向けに易しく教えた教本があるので,それを引用することにしよう。

私たちの武器は囁きと視線であります。囁きも,はっきり聞こえてはダメです。露骨に声が聞こえてしまったのでは,「生きぼくろ」と同じレベルでお笑いネタにしかなりません。囁く内容も唐突ではダメ。標的の考えていること,一番良いのは口に出して呟いたことを,繰り返し囁くのでございます。聞こえるか聞こえないかギリギリのレベルでの囁き。しかし,繰り返し繰り返ししつこく! 視線も同じことです。こちらの姿を見せてしまっては対処されてしまうのです。姿は見せずに視線を感じさせるのが腕の見せ所です。現代はやりのステルス攻撃ですね。それでは,ナルシスを追い詰めたケースに行きましょう。

あいつの弱点は自惚れでした。そこを狙って,まず,見続けることから開始いたしたのでございます。あいつは益々自意識過剰になっていきやがりました。気持ち悪いやつです。ついでに,あいつの視野に鏡が入る度に,微かな声で「鏡」と囁き鏡に目を向けさせたのでございます。次第にあいつは,鏡を探しては自分の顔を映して自惚れを強めるようになりました。こうなれば,相当露骨に「鏡!」と囁いても,あいつは外からの声か自分の考えかわからなくなります。これだけ下準備をして置いてチャンスを待ったのです。

しかし,さすがの私たちも,あいつが和式便器に水鏡を見つけたときには[あいつには聞こえない声で]歓声を上げて笑い出してしまいました。誰が言うでもなく,プランは完成したのです。私たちがニヤニヤしながら互いに肘で相手の脇腹をつつきあい[あいつに聞こえるか聞こえないかというレベルで]「美しいなあ!」と繰り返していると,まんまと罠に嵌まったあいつは「何という美しさ!」などとほざいたのです。私たちは,一斉にあいつの台詞を繰り返しました。これで完全に固着は完了。そして,あいつが本来の便器の使い方に戻ろうとしたときに,必殺の決めぜりふを浴びせました。「鏡はその上にあるものを何でも映してしまう」。あいつは,鏡の視線を感じるようになりました。後は,陶酔が続くように励ましながら鏡との恋に固着させていけば,「ちょっと用を足してくる」ためにそこから離れることは出来ないし,だからといって,他の人にならともかく鏡だけには「そんなこと」をする姿を見せることなどあり得ないという心境にお成りであり,フンボルトズーミアマリーナルシスに相応しい滑稽な死に方まで一直線だったのです。

なかなか,勉強になるケースでございます。しかし,いつもこんなにうまく行くと思ってはいけません。短気は禁物です。お祓いをされてしまわないように慎重に慎重に!

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Venus
「あめのうずめのみこと」 は,自身をヴィーナスに喩えることはあっても,アプロディーテーという言葉は避けているようです。これは,彼女が,アプロディーテーは微妙に太り気味であるという印象をもっているためと思われます。しかし,誰に喩えるべきかと言うならば,「あめのうずめのみこと」 は両手持ちの剣を二刀流で振り回し,素手で車輪を打ち砕く戦闘力を持っているのであり,むしろアテーナー(ギリシャに限定しないならブリュンヒルデ)に近いのでしょう。ただし,彼女は,アテーナーに喩えられることは好まないのです。なお,うっかりブリュンヒルデに喩えたりすると,「私は樽ではありません」と言って怒るのですが,これはブリュンヒルデに失礼だと思います。

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御禁制

このときは,山門への持ち込みが禁止されただけだったのですが,カミラの死後しばらくして,カミラ丸そのものが御禁制になってしまいます。直接の原因は,カミラ丸のキャッチコピー

柔肌の熱き薫りのひともとに
撃ちてし止まんと叫ぶ久米にも

が,お上の最強軍団をヘタリア化させる謀略とみなされたことのようです。

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二重性
彼女の言うところの Venus から マグダラのマリア へと導いておいて,マグダラのマリアと St.Mary との相性の良さを利用すれば,パッケージと Milch の二重性を意味していると主張することも可能ではあろうが,何ともわざとらしい。

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USA
'Uzza だからだろうか,「うささん」と呼びかけると,ちゃんと「なんですか?」と答えてくれるのである。なんだか,とてもかわいい。"of America" だから USA と言うわけではないと思う。まさか USAうさ と言う訳ではないだろうし。

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---thrum---thrum---thrum---
ナルニアの北に住む魔女 "The Lady of Green Kirtle" さんが弾くマンドリン(のような)楽器の音の擬音です。"thrum"と言う音の"th"の所に、ガット弦の上を指がスッと滑る音を感じられるような気がして、とても気に入っているのです。

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フツの太刀

前に,フツの太刀について説明したことなどは,健太くんのノートから取ってきたものなのです。フツの太刀に至れなかった人の考えですから,当てにはなりません。しかし,表現できぬものに至った人は表現しないし,私たちは至らずに知ろうとしているのだから,これで良いのです。

カトリーナさんに尋ねてみたことがあるのですが,

「あっ,そうか!って思ったんですよ。間合いには,こういう風に入れば良いんですよ! ねっ?」

と,やって見せてくれたのです。しかし,「ねっ?」と言われても,わからないのです。

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「姫」という称号にこれほどこだわるのだから,たぶんそうでしょう。

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ネコテ史観

ナポレオンとかクトゥーゾフと書かれたチェスの駒を「猫の手がかき回す」ことにより,歴史が展開するという歴史観。つまり,「歴史は外部の世界からの無意味な干渉により動いているのだ」 という諦めてしまった歴史観。

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エキナ史観

「歴史は外部の世界からの,こちら側の世界からは理解不能な意味をもった干渉により動いているのだ」

という腹立たしい歴史観。例えば,山手線の駅名をこじつけるために,ひとつの文化圏を誕生させ,そして滅ぼしてしまうようなもの。

もうひとつ例をこさえるなら,「生命というものは,出来損ないの原子核を安定な核に変えるために存在する」と言ってみるとか。つまり,生命の目的は進化であり,それでは進化の目的は,と言うと,半減期が数十億年というような安定化にやたら時間の掛かる原子核を効率よく安定化させることであり,電力を供給するために原子力発電所があるのではなく,散らばっていくウラニウムを集めてきて核分裂させるためにこそ,電力などというものを必要とする種まで進化させてやったのだぞ,という解釈。

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幸福の女神
今の時代,「風の神」とか「幸福の女神」を持ち出したのでは,「お話」になってしまう。そこで,一昔前は「ユダヤ」に代わりをお願いするのが流行ったようだ。

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必殺技

なぜ必殺技かというと,ネコテ史観やエキナ史観と同じく,「風の神」や「幸福の女神」などの外の世界からの干渉として捉えるからである。それに加えて,ネコテ史観では外からの干渉は無意味な干渉であり,エキナ史観では理解不能な腹の立つ干渉であるのに対して,ここでの干渉は理解可能な意味づけを持つ干渉である。したがって居心地が良く,重宝されているどころか乱用され気味である。

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当時の日本人

まさか日露戦争より後の時代の日本人が,そんな思い違いをするはずはない。そのような思い違いをするということは,「当時の日本人」という「当時」はかなり古いということになる。 しかし,それなら「ホート将軍」とか「スターリングラード包囲戦」は?

気にすることは無い。古江戸があるのだから 古独ソ戦があっても良いはずだ

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共鳴対+異類

古独ソ戦の存在は,

  • ( 江戸,古江戸) + 穢土

からの単純な類推である。古独ソ戦についてはわからないが,このパターンは, 互いに共鳴する類似した2つの存在 + 異質の存在 というトリプルの例となっている。

このパターンのトリプルは普遍的に現れるのだが,「客観的歴史」として承認されるのは,常に,トリプルのうちの1つだけである。一方,神話や民間伝承となると,トリプルはトリプルとして語られるのだが,時間の経過と共に,共鳴対はその類似性故にひとつにまとめられてしまうか,もしくは,共鳴対の一方のみが主役となりもう一方は影に隠れてしまう傾向があるようだ。

共鳴対と異質の存在の典型的な例は,「このはなのさくやひめ」の3人息子 Holy, Haute Délie, Hosiery であろう。Holy はそのまま holy であり,Délie は l'Idée から文字の並べ替えで生成されており,それぞれ,西洋騎士道における女性の理想化である「聖なる処女」と「至高の徳性」に対応している。この共鳴対に対して,Hosiery は[この場合は女性の]靴下であり,女性の下半身と結びついた大地を踏みしめる存在。Hosiery は生み出された存在「大地」に立ち,生み出す存在の内面的神秘「海」に戯れかかるのがいつものお仕事である。日の本の神話では,共鳴対の一方 Haute Délie は Holy に吸収され,ひたすら山の頂を目指す Holy と 特殊な靴下を縫う Hosiery の物語になる。物語では,高みを目指すことに疲れ果てた Holy が,Hosiery から靴下を縫う針を借り受ける。このような方面には疎い Holy は針を海で失い Hosiery に責められるのだが,皮肉なことに,針を探すために仕方なく海の奥深く潜っていった Holy は,深淵に受け入れられ,海の力を背景に大地の支配者になる。こうしてHoly の系譜が日の本の大地の支配者となるのだが,その威光の背景は海の深淵なのである。

もう一つ,triple の例を挙げるならば,カトリーナ姫,(アレクサンドリアの)聖女カトリーナ,ヒュパティアの triple である。しかし,この場合,誰が共鳴対で誰が異質なのかは意見が分かれるのである。

普通に考えれば,ふたりの賢女,即ち聖カトリーナとヒュパティアが共鳴対であり,カトリーナ姫が異質なのだが,カトリーナ姫は納得しないのである。カトリーナ姫の主張するところは

わたしとアレクサンドリアのカトリーナが一緒です。アレクサンドリアの聖カトリーナは ・・・ 車輪のことは良くわからないし,聖アンに見守られてマリア様のお膝にのった幼子と神秘の結婚をするという,あの「究極の年上のお姉さま」というのも良くわからないんですけど,でも名前同じだし,ふたりとも剣持ってるから同じです。ヒグマの爪のような貝殻で肉を削がれる乙女ヒュパティアが異質なのです。

となるのだが,これはどうかと思う。剣のように鋭い論証能力を持つ賢女カトリーナと,言語表現能力がカトリーナであるカトリーナ姫が同類というのは,あまりにも無理がある。ただし,イエスキリストとの神秘の結婚が(聖カトリーナはキリスト受難よりずっと後の人なので,どうせ時代を遡るならばどの年齢のイエスキリストでも良いはずなのに),言葉を発することのない幼子イエスとの結婚であるという点は,その気になればカトリーナ姫の主張を擁護する材料として採用できそうである。しかし,どのように解釈したものか・・・

なお,「車輪を壊す」ということについては,聖カトリーナの場合,インド趣味の解釈は成立しないと思われる。循環する世界という異教の観点を打ち砕くという象徴と捉えるのも,おそらく無理。西洋では,死刑に車輪を絡ませることには特別の思い入れがあるようだが,なぜかは不明である。

もう一点,「ヒグマの爪のような」という喩えであるが,なぜカトリーナ姫がこの喩えを用いたのかということは,気にかかる。「ヒグマの爪」は「あめのうずめのみこと」に絡むのである。

これは,勘太縁の審問官が「あめのうずめのみこと」立ち会いの下で,Katz 伯に審問を行ったときの話である。審問官の気がかりは, Katz 伯が「カブトムシ」から聞いたと噂になっていた目撃談であった。ここで言う「カブトムシ」は,枯れ滝の側で「あめのうずめのみこと」と健太くんが色々していたとき,木の上からそれを眺めていたカブトムシさんのことである。「あめのうずめのみこと」の立ち会いを要求したのは Katz 伯である。彼女は

「女性を立ち会わせて淑女のプライベートな行いについて尋ねるなんて,なんて失礼な人たち!」

と(一応は)抗議したのだが,審問官は( Katz さんも )意に介さなかった。以下はお気楽な Katz 伯の証言である。

「女性ですか。確かに牝なのかも知れませんが。問題になるのは,健太くんが枯れ滝のところで振り向いたところからです」
「健太くんが振り向くと,そこには凶暴なヒグマが立って居ました。ヒグマは健太くんに襲いかかります。健太くんは素手でしたが,そこは流石,戦う気満々でヒグマに立ち向かいます。しかし,たとえカトリーナ姫でも,素手でヒグマ相手は無理だったでしょう。いや,素手でヒグマ相手となると,健太くんの方がまだ戦闘力があったかも知れません。いずれにせよ,勝負にならないのですが」
「ヒグマは勇敢な健太くんを一撃で仕留めると,ますます凶暴さを発揮し,鋭い爪で力任せに血に染まった衣服をすべて(とついでに皮膚も所々)はぎ取り,腹に牙を立て内臓を引きずり出し,死骸(まだ生きているのですが,ほとんど死骸です)を振り回しました。それから,健太くんを食べちゃった訳ですが,巨大ヒグマと雖も全部召し上がるには多すぎたようです。食べ飽きてしまったヒグマは,食べ物が目の前にあるのは目障りだったのでしょう,枯れ滝に蹴落としました。それから,あー喰った喰ったという風情でお腹をなぜながら,ゆったりと去って行ったのです」
「これが,カブトムシが見た情景なのです。生と死の両側に立つあなたならではですね」

「ふっ,カブトムシだから,そんな風に見るのです。まあ,ヒトもカブトムシも似たようなものだけど」

「ほお,さすが神ならではのおっしゃりよう。兎に角,あなたは凶暴なヒグマだったのですね」

「ええ。肉食系とおっしゃりたいならならばそれでも」

審問官という職務からはどうかと思うのだが,審問官は「あめのうずめのみこと」に同情してしまった。

「あなたも大変ですね,Katz 伯と安房守の御相手は。それにしても,あなたが健太くんを食い殺したとは」

「そんなことない。あれはカブトムシが見たこと。わたしは健太くんをとても優しく親密に」

「そうでありましょう。そうなのでしょう。食べちゃったこと,つまり,取り込んでしまったことに変わりはありませんが,どちら側から見ているか,という見方の相違なのでしょう。どちらにしろ,女の子として生まれカトリーナ姫になるわけですがな」

審問官は,さすがにやる気を失っているようだ。西洋ではマグダラのマリアを男性に変容させてからどうのこうのと苦し紛れの工夫をしているというのに,「健太くん」を女性に変容させると「神の如き才能」を得るとは,全くもって怪しからん話である。それどころか,こんな調子では,主を釘付けにした十字架を抱擁と捉えるとんでもない妄想にまで発展しかねない。しかも,そのような妄想に陥った不心得者を「鉄の処女」に放り込んでやっても,「母なる処女(マリア)の抱擁」と喜びかねない。実に怪しからん。しかし,ここは日本である。相手は「あめのうずめのみこと」である。諦めるしかないのであろう。

ところで,これは何の注だったのだろうか。確か,「古独ソ戦」だったか ・・・ それならば,聖カトリーナが良い例になる。「古独ソ戦」は,独ソ戦をヒュパティアとしたときの聖カトリーナの如き存在なのである。

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三通りの呼び名
インド趣味が弱まってくると,「・・・スカヤ」をインド趣味の響きと感じることもなくなり,「タタライスカヤ」が受け入れられるようになった。また,インド趣味と感じられたのは,「・・・スカヤ」よりも,「・・・カヤ」を「・・・カーヤ」と聞き取ったためのようで,この場合,「タタライスカーヤ」は「タタライス + カーヤ」と分解されるので,ロシア人ならば「・・・スキー」論者は「タタライス + スキー」と理解したのであろう。 こうして,タタライスケ,タタライスキ,タタライススキと,三つの呼び名が混在することになったのだが,タタライススキは何とも呼びづらい。そこに都合良く,「イススヨリヒメ」という名の姫様がいたので,これ幸いとばかりに,「タタライススキヒメ」は「タタライススヒメ」となり,ついでに「タタライスケヒメ」は余った「ヨリ」をもらって「タタライスケヨリヒメ」と変わって,ようやく落ち着くことになる。

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タタール (Tatar)

さて,タタールだが,これも曰く付きの名前である。

天の岩屋戸のキャンプファイアーにおいて,「あめのうずめのみこと」がその上でコサックダンスを踊った「桶を重ねて作ったタワー」だが,これは桶ではなく樽だったという説もある。 多樽たたるの上で踊るロシア という訳である。また,多樽のタワーは極めて不安定なので,「あめのうずめのみこと」のまねをしてみても,その上で踊るどころか上まで登ることも難しく,タワーを崩してしまい飛び降りることになる。飛び降りるにしてもうまく着地できずに無様によろける羽目になる。これから多樽を踏む」という言葉が生まれた。

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タタルスカーヤ

それならば,いっそのこと,多樽の上で踊る「あめのうずめのみこと」のうれしいお体を,インド趣味で解釈してしまうと, 多樽T A T A R喜びS U K H A「お体K A Y A」(tatar-sukaya) と読み取れる。

明らかに,タタルスカーヤは「あめのうずめのみこと」との共鳴を有する。この共鳴により, ヒメタタライスケヨリヒメ,ヒメタタライスズヒメ などと「姫」(媛,比売)が2つも付くのである。

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多樽を踏む

「多樽を踏む」はふざけるにもほどがある,それは「蹈鞴たたらを踏む」であり,蹈鞴は有り難くも玉鋼を作る「蹈鞴たたら吹き」の蹈鞴である,と指摘されることは承知している。しかし,蹈鞴吹きの技はあまりにも精緻であり,もはや単なる技術ではなく Jung 先生お得意の Alchemy の領域である。ほど穴を通してあちら側の世界を知るような叡智を前にしては,お辞儀して引き返す以外になにができるだろうか。

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MalNotch
人に限らず,MalNotch もまた,集まったものである。話は逸れるが,MalNotch に絡んで「石が砂のように崩れてゆく」,「利根川」,「穢土の特徴的な死」の三つだが,これらが同じ MalNotch によりもたらされたとは断言できない。引き金としての MalNotch は一つであっても,別々の "MalNotch" が破滅をもたらしたのかも知れない。それどころか,「利根川」や「穢土の特徴的な死」すらも,最初のものを隠すための付け足しという可能性がある。そうなると,「来てはならぬ息はするな。月無き闇夜は沢に月」などという警告も,MalNotch の本来の効果を隠すものであり,元々は,「そこから出るものは,かかとの塵を払え」だったとも考えられるのである。幸いにも,日本の気候は全般的に多湿なので,崩れた石が塵として拡散する作用は、比較的弱かったのであろうが。

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ヒトラー

これはよく知られた事実であり,

Hitler has only got one ball
Göring has two but very small
Himmler is something sim'lar
But poor Göbells has no balls, at all

と歌われている( 旋律は,Colonel Bogey March,「戦場にかける橋」のテーマ曲)。

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・・・ようなもの
ここでの「・・・ようなもの」は「ご飯,アンコウのようなもの」とか「バールのようなもの」とは異なり,喩えに過ぎない喩えである。正しくは,「幻覚というものがあるからこそ客観的事実という言葉に意味があり,客観というものがあるからこそ幻覚という言葉に意味がある」となるのだろうし,また,「すべての時にわたってすべてに共有される最優秀集団幻覚」というものも,厳密にはあり得ない。それはもはや幻覚ではなく,ついでに言うならば,「すべての時にわたってすべてに共有」されている以上,部分的幻覚は存在し得ず,客観的という言葉も意味を持たなくなるからである。

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ヌードとその時代
これも時代と地域の影響を受ける。「むだ毛とかどうしてます?」と聞いてみると分かる。

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日本の神話
日本の神話には,このような神形はあまり登場しない。流石は「磨き上げると減る国」である。その時代の服装で人間そのままの神形から,途中を省略していきなり,「なにごとの おはしますかは 知れぬども」まで行ってしまうのであろう。

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ダーキニー
区別した上で,異なる意味のダーキニーがひとりのダーキニーとして振る舞うところが,神形の,特に密教系神形の醍醐味でもあるのだが。

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言葉もない

しかし,「・・・でない」と言うことはできるらしく,例えば,「目覚める」という行為は無く,ましてや目覚めた「状態」などというものは無い,と言うことになるのだろうが,とても難しい。

理解し表現することは難しくとも,また,「集団幻覚」も「目覚める」も喩えであるとしても,喩えを喩えとしたままで「目覚める」ための「オクスリ」を用意することは可能であるらしい。密教系インド趣味において,神々の世界という人の世界とは異なる世界での在り方を繰り返し練習していたとしても,それは一種の「オクスリ」なのであろう。

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