Ⅵ 地獄のベテラン
地獄のベテラン、ヨアキムの一日は、牢獄の寝台で目を覚ましたときの絶望と恐怖から始まります。目を覚ました途端に、私たちには想像できないほどの絶望と恐怖が襲いかかっているのですが、ヨアキムの表情は全く変わりません。固まったような無表情のままです。表情というものは、かすかであっても他者への信頼が、そうでなくても、他者への憎しみであるにしろ威嚇であるにしろ、なんらかの関わりが成立していなければ意味のないものです。しかし、ヨアキムに接する唯一の他人である看守は、ヨアキムの攻撃にも懇願にも全く反応せず、彼らの「業務」(?)を淡々と遂行するだけだったのです。ヨアキムには他者はいなかったのです。今では、表情というものは全く無くなってしまっています。
ヨアキムは恐怖に叫ぶということもしません。ベテランヨアキムは、あまりにも「恐怖」に習熟してしまったので、「叫ぶ」という一瞬の気晴らしに時間を使うこともできないほど、「恐怖」に集中しているのです。 このヨアキムの集中力は、私たちの世界のどんな修行者も太刀打ちできないほどのレベルだったのです。
目覚めた瞬間から一瞬も気を逸らすことなしに、ヨアキムの心はやがて聞こえてくるはずの看守の足音に集中しています。それと同時に、やがて襲ってくる痛みを思い出し、否、思い出すと言うにはあまりにも生々しく、もうすでに痛みはそこに在ったと言った方がよいのでしょう。
ドアの開く音が聞こえ、看守の足音が近づいてきて、牢獄のドアが開き、看守の手がヨアキムを掴み、「あの場所」に運ばれて行き、鉄の寝台に括り付けられ、炉の上に持ち上げられ、と段階を踏むたびに、ヨアキムの恐怖は、立ちはだかる目も眩むほどの高さの絶壁を越えて、更に強烈な恐怖の高みへと上り詰めて行きます。
それなのに、心臓は、初心者の頃のように鼓動を速めることはなく、ヨアキムは叫び声をあげることもなく、表情を変えることもなく、丸太のように運ばれて行きます。ヨアキムは剣術の達人のように、鼓動を乱すことはなく、叫び声をあげることはなく、表情を変える等の雑多な事柄に心を乱されることはなく、唯一つのことに、この場合は恐怖と痛みを味わうという唯一つのことに集中しているのです。ヨアキムは長年の研鑽により、恐怖と痛みを味わう達人となっていたのです。
何事も一心不乱に練習すれば信じられないほどの高みまで上達するものです。ベテランヨアキムが味わっている恐怖は、たとえそれがまだ目が覚めてすぐの第一段階のものであったとしても、初心者の頃のヨアキムが味わったとしたら即死してしまう程の強烈なものにまで、高められていたのです。