ありきたりの核戦争

ありきたりの核戦争

ある日のストーリー

その日は夏休みの登校日だったので,武田君と太原君を誘って3人で学校に行った。 とても暑い夏休みの一日である。そんな日は遊んでいても暑いのに,学校に行くのはもっと暑い。その結果,とても損をした気分になるものなのだ。

さて,このように書くと,学校に行ったのは小学生だと思うはず。しかし,どこにも小学生だとは書いてない。だから,小学生だと思わせておいて「私は小学校の教師ですけど?」という罠が心配になるかもしれない。だが,ぼくはそんなトリックは好きでない。ぼくは,小学生である。

学校に行ったときは三人一緒だったけど,帰りは一人で帰ることにした。それは,なにか秘密のミッションがあるとか,目医者さんに行くとか,そういうことではなく,たまたま一人で帰ることになっただけのことなのだ。本当に特別な理由はない。絶対にない。

だから,その日の帰り道は,夏休みなのに学校に行ったということ以外は,いつもどおりの帰り道のはずだった。しかし,川のそばまで来ると,それは夏休みとか,学校に行くとか,帰りは一人だとか,そんなレベルではなく,徹底的に違った帰り道になっていたのだ。

いつもは,頭をひっつけあって情報交換してるアリンコのように,道のまん中で自転車を降りて立ち話をしているおばさんたちとか,いつでも台車を押して走っている佐川急便のお兄さんとか,そういう人たちがみんな川の側に集まっていて,みんなでわいわい話しながら川を見ているのだ。川の水はいつもよりずっと多くて,でも,大雨の日の川とは違って水は透き通っていて,とても冷たそうで,すごい速さで流れていたのだ。もちろん,天候は雨でなく晴れで,夏休みだけあって,やたらに暑い昼間。みんな,「どうしたのだろう」と話していたけれど,どうしたのだろうと言うだけで,誰も原因を知らないようだった。なさけないことである。

ぼくはその橋を渡らずに,もう一つ先の橋を渡って家に帰ることにした。商店街を歩いているときは,商店街も商店街の人たちも,いつもと同じだったので,さっきの謎の水は思い違いかという気がしてきた。残念なことに,世の中はたいていの場合,つまらないのである。

しかし,商店街を通り抜けて橋の所まで来ると,川の水はさっきよりもっと増えていて,もう,橋の上を越して \(10\, \mathrm{cm}\) くらいの深さで流れている。それは,とてもきれいで気持ちよさそうに見えた。さっきの橋の所と違って,あたりには人がいなかったので,橋を渡ってみることにした。

水はとても速く,ぼくの足に当たって水しぶきに変わっていく。足首までは冷たく,気持ちよく,そして水しぶきがもものあたりまであたって,クーラーの風を浴びるのよりももっと気持ちよく,ぼくを幸せな気持ちにしてくれるのだった。流れは速く,水は透き通っていて,コンクリートで固められた四角い断面のいつものつまらない川とは全然違っている。それは,京都大原の有名な院(寺ではなかったと思う)の近くの川のように透き通っていて,この川の中に魚のように潜って空を見上げたら,空はどんなにキラキラしているのだろうかと誘惑されてしまうほど,きれいな川だった。本当に,この流れの中に入ってどこまでも流れて行けたら,どんなに良いだろうか。

ひざのあたりで水しぶきをたて,ぼくの足が作ったしぶきで辺りの空気を霧のようにヒンヤリさせて,水の中の魚のことを考えながら橋の欄干にもたれかかって,惜しげも無く流れていくきれいな水を見ていたのだが,本当に飛び込もうとしていたわけではない。それなのに,そこにいきなり消防隊の服を着た人が乱暴な水しぶきを立てながら走って来て,ぼくに飛びかかったのだ。そして,殴り倒すように僕を抱きかかえると,しぶきを立てながら,そのまま川を渡りきって水が来ない所まで走って行き,座り込んでしまった。ぼくは死にそうに危ないことをしていたらしい。つまり,飛び込もうとしていたかどうかの問題ではなく,橋の上にいたことが危険であったらしい。とにかく,ぼくは神秘の川の冒険に出ることに失敗してしまった。

さて,ぼくは叱られたのかというと,そんなことはない。さっきまでは,怖いけど頼りがいのありそうな消防士だったのに,今は,ぼくを地べたに下ろすとボーとした顔になってしまい,「あり得ない!こんな流速なのに,抵抗が」とか「軽い!全く軽い!」とか,「なんなんだこれは!」とか,最後には「ベルリンフィルの低音が足もとを」などと訳のわからないことを言っているのだった。

助けに走って来てくれたときの表情を考慮に入れて状況を考えると,水の流れというものは人間が簡単に足をすくわれてしまうほど危険なものなのであり,それにもかかわらず,ぼくは平気で立っていられたし,ぼくを抱えたまま平気で走れたこと,このことを不思議に思っているのだと思う。最後の「ベルリン」は全くわからない。それほどまでに取り乱しているのであろう。しかし,そもそも雨も降っていないのに水量がいきなり増えることが不思議なのであり,まずはそこから考えるべきなのだと,ぼくは思う。

水は,いきなり増したのと同じように,いきなりいつもの流れに戻ったらしい。ニュースでも話していたし,新聞にものったけれど,どうしてかは未解明のようだ。地下水の同時湧き出しという説もあったし,断層とか地震とかを心配する人もいたけれども,本当にわからない不思議なことは,そのうちにほっとかれるらしいのである。しばらくすると,みんなは川の話はしなくなった。そんなことよりも,北中国との緊張が深刻な話題だったのだ。

その時

三週間くらい過ぎて,運命の日が来たのだけれども,ぼくはそれを知らなかった。いつもの退屈な一日だと思い込んで学校に行き,帰りには目医者に行った。知らなかったのは,ぼくだけではない。だれも知らなかったのだ。

ぼくは,目医者に行くのはきらいではない。受付のお姉さんと,親密で対等な会話をもつことも,きらいではない。その日,受付のお姉さんは,ぼくにミッションを提示した。それは,自転車置き場に置いた自転車に鍵を付けっぱなしにしてきたようなので,その鍵を取ってくるということである。これは,一言で言うならば「取ってこい」であり,ミッションなどというたいそうなものではない。そんなことは知っているのだが,それを知っていて真剣な顔をしてミッションを引き受け,それを知っているのにぼくが真剣な顔をして見せていることを知っていて,それなのにものものしくミッションなどと言って依頼するという,この関係を大人の関係と言うのだろうか。

自転車置き場は車道の下にあり,歩道にある階段を降りて行く。階段を降りると,そこは道路の下を横切る歩行者通路であり,その途中を曲がると,狭い通路の先に地下自転車置き場が広がっている。ぼくは受付のお姉さんの自転車をよく知っているので,すぐにその自転車を見つけることが出来た。鍵はちゃんと付いていた。鍵をポケットに入れて戻ろうとしたとき,それが来た。

突然,誰かがフラッシュを使ったように一瞬だけ辺りが光り,それから駐輪場の入り口が明るくなり,その嫌な感じの明るさは十秒くらい続き,その間,外から,何が起こっているか把握不可能な得体の知れない声が聞こえてきて,自動車が衝突するような音がいくつも続いたのである。そして,突然,体中を叩かれたような感覚があり,周りから一切の音が消えて,ぼくの身体は自転車置き場のたくさんの自転車をなぎ倒しながら,奥の方へ連れて行かれた。

気がついたときには嫌な明かりはなく,音はまったく無く,ぼくは暗闇に一人で居るらしかった。とにかく,すぐにここから出るべきである。空気は,サウナのように熱い。なにか嫌な臭いがする。これはかなりまずい事態である。すぐにここから出ないと,蒸し焼きになってしまうかも知れない。それなのに,真っ暗闇で何も見えず,音はしないので,出口の方向がわからない。手探りで進んでみるけれど,自転車は全部倒れているので通路がどこかもわからない。外の人たちは,たぶん,小学生がここに閉じ込められていることを知らないので,おそらく,助けに来てくれないと思われる。自分で脱出しなければならない。

ぼくは,母親を呼んで泣き叫んだりしない。母親は,ぼくが二歳の時,死んでしまったからである。残念なことに,ぼくは母の顔を覚えていない。しかし,ぼくは想像力で補うので,ぼくの母は美しくて優しくて柔らかくて良い匂いのする理想の女性なのだ。だから,ぼくはいつも母のことを考えている。でも,こういうときには,とっさに母の顔は思い浮かばなくなるものだ。父親は,休日の他は働くのである。したがって,今日も仕事に行っているので,遠くに居すぎて助けに来るのは不可能なのだ。祖父と祖母は両親のようなものだが,助けに来てくれるには,身体が弱すぎる。したがって,ぼくは反射的に泣き叫んで助けを呼ぶような余裕は無いのである。

しばらく時間が経って,目が慣れてきたのかも知れない。ボーとした光が見えてきた。たぶん,出口である。そちらに向かう。しかし,出口は,崩れてきたものでふさがっていた。これはとてもまずい事態である。とうとう,ぼくは叫んでしまった。こういうときに体裁を気にするべきではないのだ。しかし,ぼくは叫んだつもりなのに,たぶん,かなり恥ずかしい叫び声をあげたはずなのに,その声がしないのである。ここは本当に音というものがない世界のようだ。恥ずかしいことだが,ぼくは泣きながら,崩れた隙間に潜り込んで外に出ようとあがいたのである。何とかして出たかったのだ。

その時なら,ぼくは,外に出るためなら,ぼくの持っているものは何でも差し出したであろう。そして,さんざんあがいた結果,そしてぼくの身体が小さかった結果,そして最も重要なことだけど,このことに限ればぼくが運が良かった結果,ぼくは外に出ることに成功した。

外の世界

地下の歩行者通路はそれほど崩れてはいなく,そこからは普通に歩いて地上に出ることが出来た。しかし,おそらく,ぼくは外に出ることが出来ない方が良かったのだろう。つまり,ぼくは運が悪かったのだろう。外は酷い世界だったのだ。ぼくは勉強をしていたので,これが何かすぐにわかった。原子爆弾か水素爆弾が落ちたのである。

コンクリートの建物は,窓ガラスが無いほかはそのまま残っているけれど,低い建物は潰れていたり,燃え残っていたり,まだ燃えていたりしていて,あたりは色々なものが焼けた臭いと,今までかいだことのない嫌な臭いと,ほこりのような煙が立ち込めていて,ほうぼうにマネキンが焼けたような死体が転がっている。そして,まだ歩いている人たちは服と皮膚が完全ではなくて,皮膚を無くした人たちは,完全な服と皮膚をもっているぼくの方によたよたと歩いてくる。ぼくは逃げだしてしまった。外の世界にも音はなく,叫んでいるらしい人も,なんかぼくに頼んでいるらしい人も,声を作ることができないらしい。

ぼくは小学生だ。どうしてこんなたくさんの大人を助けることができるというのか。ぼくは逃げながら,まだ焼けている家を避けて,よく知っているはずの町を走り回った。ぼくの他にも地下室とかにいて無事だった大人はいるはずである。警察や自衛隊が救助に来てくれても,良いはずである。どうして,この人たちは小学生のぼくに手を伸ばしたり,いきなり足を掴んだりして,ぼくの皮膚をほしがるのだろうか。ぼくは,だんだんと,この人達がゾンビのように思えてきた。

走ったせいだろうか。やたらに熱い。ゾンビから逃げ回っているはずのぼくも,健康ではなくなってきた。体中が痒い。顔や手は,日焼けしたみたいにヒリヒリする。頭がクラクラする。ムカムカするけど吐けない。それでも,ぼくは逃げる。

どのくらいの時間,逃げ回ったのだろうか。ぼくは,坂道を降りて,川のそばに来ていた。ぼくは,あの不思議な増水を眺めていた橋のところに来ていた。

川は,ぼくにとどめの一撃を与えた。川の中は,焼けた人たちの死体でいっぱいだったのである。元気な人はいないのだから,死体を川に放り込んだのではない。みんな,この川に飛び降りて,最後は,水は無くて死体で埋め尽くされた川の底に積み重なって死んだのだ。

どうしてこんな恐ろしい光景を作ってみせるのだろうか。ぼくは,理想の母も,父親も,祖父も祖母も,目医者さんも受付のお姉さんも,好きだった人たち全部含めて,それから自分も含めて,みんな大嫌いになっていた。こんな世界の人たちを好きになれるはずがない。みんな最初からいなければ良かったのだと思う。

橋のまん中に来て,橋の欄干に顔を付けてしゃがみ込んで,ぼくは外に出てからはじめて泣いた。あのとき,水の中に入っていれば,たとえそのために死んでしまったとしても,こんな光景を見ることはなかったのだ。あの水に入っていれば,理想の母さんを嫌いになることもなかったはずなのだ。意地悪なことに,今,こんな光景の中で,あのときの冷たくて気持ちの良い水をありありと思い出すことができる。 なぜ,あのとき川に入らなかったのだろう。これは,もう取り返しがつかない失敗なのだ。

しばらくして,ぼくは西武秩父の近くの二子山のことを思い出した。どんなに疲れるとしても,途中で水を飲むことができなくて死んでしまうとしても,ぼくはそこに行こうと思う。ぼくは二子山の間の谷間で,人間ではなく動物や虫や木に囲まれて死にたいと思う。おそらくぼくの身体は,そこで人間でない色々な生き物の役に立つことになるだろう。ぼくはそれを期待する。

解説(などできるはずもなく)

この小学生は秩父どころか石神井にも行き着かずに死亡。致死量の被曝を受けていた可能性はあるが,放射線被曝による死はもっと時間が掛かるので,直接の死因は,おそらく熱中症か呼吸器の障害かと。鼓膜が破れるほどの加圧を受けているし,爆風により自転車をなぎ倒しながら壁面まで運ばれたときに打撲を受けているかも知れないので,本当のところは,わからないのだが。いずれにせよ,最後はあの川の少し上流で(そこも死体で埋まっているのだが),その死体の川に飛び込んで死ぬ。ひどい苦痛に歪んでいるかのような表情で。

このように見ると世界はあまりにも無惨なのだが,同じ光景をこの小学生から見ると,最後の光景は違っている。この子の世界では,この川は冷たく透き通ったあの川であり,だからみんなもここに入ったのだと安心して,そして好きだった人たちを再び好きになって,水の中を魚のように泳ぎ回っていたのである。世界はその両側を見るならば,それほど酷いものではないようだ。

見てきたようなことを言って,と叱られそうだが,そもそも,最初から見てきたようなことを言っているので,問題はないかと。だいたい,こんな話しは,「突然の川の増水」とか「世界の両側」とか持ち込まなければ,あまりにも・・・・・