静かな世界
ミミズさんは偉い。
およそ人間にとってありがたい大地の土壌さまというものは、 一度はミミズさんの腸管を通り抜けたものらしく、 ミミズさんがいなければ、大地は岩のかけらと小石ばかりの役立たずの荒れ地(らしい)。
それを、長い長い年月をかけて、数え切れない数のミミズさんたちが死んでは生まれ、生まれては死んだりしながら耕して、「土」というものができるらしいのです。
ミミズさまのありがたみはダーウィンが指摘したことなので、たぶん本当なのでしょう。
しかも・・・・・・
ミミズさんは、死ぬときにはわざわざアスファルトの道路の上に出てきて、干涸らびてお亡くなりになるのですが、それはアスファルトの道路の上に自分の亡骸で土を作って、やがてはちゃんとした地面にしようとする行いらしいのです:
ミミズさんは偉い。とてつもなく偉い。
さて、夏のある日、田舎のアスファルトの道路のまん中で、一匹のミミズさんが干涸らびかけていました。
こんな道にはめったに車は通らないので、タイヤでぺちゃんこにされる心配はなく、また、アスファルトの道路のまん中まではアリの偵察隊はめったに見回りに来ないので、アリの集団に食いちぎられる心配はないのです。でも、そんなことは、ほとんどもう関係ないほどミミズさんは干涸らびて、死にかけていたのです。
蝉はやかましく鳴いていて、ひとりのじいさまがしゃがんで、死にかけのミミズを見ています。
ミミズさんは大変に苦しんでいました。
そもそも、ミミズさんの日常はあまり想像できないので、普段のミミズ生活での「痛い」とか「苦しい」とかがどんなものか、よくわかりません。でも、ミミズさんのしめってヌラヌラしていなければならない皮膚が乾ききって、ひび割れてゆくのです。それは今まで経験したことがない酷い痛みで、またこれ程の痛みというものがあると想像もできないほど、酷いものだったはずです。しかも、もっとひび割れてくると、さっきまでの痛みの中でさえ想像できなかったほどの、もっともっと酷い痛みがあることがわかってきます。
それでも、ミミズさんは痛みのまっただ中でも、静かな気持ちで干涸らびていました。
「これがミミズとしてのミミズの生き方。ほんのわずかだけど、生きている間に土を作って、こうして死んでからは、この体が土になって」
「本当に小さいけれども私の作った土のかけら」
これが、ミミズさんの偉いところなのです。ミミズさんはほとんど死んでいました。さっきまでの痛みは、もうどこかに行っています。ミミズさんは、なんだか体から離れて、ふわふわと浮き上がって、上の方から自分の干涸らびた体を見下ろしているような気持ちになりました。干涸らびた体は小さく、じいさまがそれを見つめています。
一生を地面の下で暮らしてきて、そして死ぬことになってからも地面にへばりついたままのミミズさんにとって、世界を上から見下ろすのは初めてのことです。
アスファルトの道路は広く、ミミズは本当にちっぽけです。もっと上から見ると、背の高い草が夏の暑さにむんむんしている地面が広がり、遠くには丘が見えます。
「小さくても私の作った土のかけら」
ミミズさんはつぶやきました。
「この草地もミミズたちが作ったのだから ・・・ けれども」
「けれども、本当にちっぽけな土のかけら」
ミミズさんの死骸(たぶん、もう死んでいるのでしょう)は見えないくらいちっぽけです。ミミズさんの死骸を見つめているじいさまでさえ、小さく見えます。
「この広い広い草地もミミズたちが、数え切れないほど多くのミミズたちが作ったのだから。一匹のミミズは小さくても・・・・・・小さくても私の土」
「けれども、けれども、あんなに小さい。あまりにも」
ミミズさんの静かだった心は、ちょっとざわざわしてきました。
「・・・小さいなあ・・・」
そのとき、ミミズさんの耳元でじいさまの声がしました。
ミミズさんは空の上の方まで、ずいぶん上の方まであがっていたはずなので、ちょっと変ですね。ミミズさんは、まだアスファルトにへばりついているのでしょうか。
それはともかく、じいさまの声が聞こえました。
「安心しなさい、ミミズ。おまえが作ったと思ってる土のかけらも、おまえの体が作る干涸らびた小さな固まりも、おまえが作ったのではない。おまえは何も作ってはいない。すべては、私が作った」
ミミズさんは喜びました。世界はとても静かで、だからもう下の方を見る必要はなかったのですが、お別れを言うためにもう一度だけ振り返りました。背の高い草が夏の暑さにむんむんしている草地が広がり、遠くに丘が見えます。そして、アスファルトの道路の上には、小さな土の固まり。
「小さいけれど、これはあなたのもの」
ミミズさんはとても安心して、死にました。