根本経典
わたしは千のミミズとなって、
大地の女神さまのもとに帰ったのだから。
すごいでしょ?
だから、わたしはここに居ませ・・・・・・ ? ・・・ !
ちょっと! そこの君たち! 何をしているのですか、ここはお墓ですよ!
わたしのお墓の前で、そのような動物的行為は
まあ、仕方ないのかも知れませんね。哺乳類の「つがい」なのだから。でも、ミミズ様は、ミミズ様の場合、オスとメスがあるとかないとか、そんなことでなく、ミミズ様の偉いところは ・・・・・・
なんですって? ここに居ないのになぜ答えているのか、ですって? あのね、動物的行為を咎められたからといって、なにをいきなり理屈っぽくなっているのですか。発言と衣服の乱れが調和していません。人が見たら笑いますよ。そう。それで良いのです。そこに座ってお聞きなさい。手はお膝。
そも、大地の女神さまのお身体とは、なんでありましょうか。どこが目で、どこが口で、どこが手で、どこが足なのでしょうか。それとも、そんなことは無意味なのでしょうか?
それは無意味であるとも、意味があるとも言えます。
「どこが」ということを、そのまま目に見える大地に当てはめるならば、確かに、無意味です。
けれども、そもそも、女神とか、女神ではないけれども神様とかいう存在は、人が理解し得る形で、と言うか、いわゆる三次元の形として、つまりですね、目に見える二次元の映像から、あなたたちが想像して組み立てている三次元の空間の形として、存在しているわけではないのです。
ですから、 神形 というものを心に生み出すためには、二重の「思い込み」が必要になるのです。
まず、女神さまとして相応しいお姿を教えてもらいましょう。自分で考え出せば良さそうなものですが、それではそのお姿に「わたし」が取り憑いてしまって、うまく行かないのです。
さて、その教えていただいたお姿は、ヒトの形そのままかも知れませんし、少し違う姿(たとえば手が六本あるとか)かも知れませんが、兎に角、形として想像できる姿のはずです。でも、だからこそ、これでは不十分なのです。形として想像できる姿だから故に、大地(という、これも形あるもの)と結びつけることが難しいのです。
それでは、自分がその女神さまだと思い込んでしまいましょう。これには練習が必要です。繰り返し繰り返し、練習することが必要です。うまく行けば、練習の結果、自分がその形の女神さまだと思い込むことができるはずです。思い込むと言っても、憑依とは違います。普通の形での自分であると同時に「女神さま」の姿なのです。
そして、そのままの状態で、(たとえば、その女神さまが大地の女神さまならば)私たちが想像している「大地」というものの、それは「普通の意味での自分の姿」が属している世界の大地ですが、その大地の、たとえば麦畑がある所が(女神さまである自分の)額に、たとえばですよ、たとえばだから、額にしておきますが、その他にも稗の畑のあたりは、まあ適当なことを言うと目に、と対応させていくのです。
回りくどいやり方ですが、これはしょうがないのです。私たちは形がないと実感がわかないし、だからといって、女神さまを人の形に押し込めてしまっただけでは、女神さまは、そのうちにヒトになってしまうので。
あっ、それがお望みならば、どうぞ。でも、それは 大地の女神さまだった女神さま に過ぎません。そして、そのうちに駄女神に変わっていきそうですが・・・・・・でも、それを求めるのも哺乳類の欲求なのだから、しょうがないのでしょう。そう言えば、誰かさんと誰かさんが麦畑って・・・・・・うーん、何と言うのか、麦だったんですね。それがどうしたというわけでもないのですが、まあ、哺乳類のつがいなんてものは。
と言うわけで、 わたしはここに居ない というのは、わたしがヒトが理解する意味での場所としての「ここ」に居ないということなのです。
どうです?理屈っぽくしたいなら、いくらでも。わたしは賢いので。
でもね、本題はそんなことではありません。本題は、ミミズ様は偉い、ということなのです。作物を実らせ、丘を花で飾り、雨が降るとぐちゃぐちゃになる「土の大地」というものは、すべてミミズ様が作ったのです。死んでは生まれ、生まれては死んでいった数え切れない数のミミズ様が、少しずつ、少しずつ。
ミミズ様がいらっしゃらなかったら、大地はゴチゴチした岩と、岩の欠片、そしてそれが砕けた砂ばっかり。味気ない世界だったはずです。うそだと思ったらダーウィン先生に聞いてごらんなさい。ダーウィン先生の言うことなら信じられるでしょ?
ミミズ様お一人の作る土は、ほんの僅かです。ミミズ様の短い生涯で僅かの土をお作りになり、そしてその亡骸も土になって。それでも僅かなのです。ミミズ様のお気持ちは・・・・・・