キラウェア島
いわゆる教養という点において、警察官をなめてかかってはいけない。少なくとも、新米巡査根来村をなめてかかってはいけない。日の本の古典について言うならば、根来村の「教養」はかなりのものなのである。
ただし、文学部を出たとか、難しそうな顔をして文学の研究をしたとか、そういった教養ではない。兎に角、「古典」を暗記しているのである。
これは、根来村の育った家庭(つまり、根来村家)の特殊性であろう。特殊性と言っても、特殊な職業に従事していたとか、一子相伝を保つ家柄であるとか、そういうことではない。ただ、どういうわけか、根来村に物心が付くやいなや、両親は「やたらに古典を覚えさせる」という教育をしたのである。というわけで、根来村は結構な量の古典を暗記していた。
それでは、今でも「古典教養」に立脚して世の中に対しているのかというと、そうではない。根来村家の特殊教育は、自分の意思での判断というものを主張する年齢、根来村の場合は高校の二年の頃であったが、その年齢になると終了した。そしてそれから二度と、根来村が「古典」に接することはなかった。ごく普通の、しかし、他の人たちに比べると遅れてスタートした「普通の高校生としての世の中への接し方」で、いわゆる人生というものを歩むことになったわけである。そして根来村は警官になった。
それでは、根来村が家出少女に遭遇する半時間ほど前に戻ろう。
根来村は、山路と言うべきか林の路と言うべきか、それはどちらでも良いのだが、しかし森の中の路と言うのは大げさな、そんな小道を歩いていた。足下の小石混じりの土は湿って柔らかく、土になりかけの落ち葉の上に落ちたばかり葉が重なり、その下に隠れて、根来村の目には留まらぬ小さな生き物たちがいそいそと活動していた。根来村はそのような生き物たちの生活を顧みることもなく、テクテクと踏みつけながら単調な歩みを進め、その頭蓋骨の内部には、犯人逮捕妄想がこれでもかとばかりに充満していたのである。
ものの世界における、根来村と葉っぱの下の生き物たちの二重性と同じく、根来村の内面界も二重性を隠していたのである。
それは、ハワイはキラウェア島の溶岩原のようなものであった。
流れ出した溶岩の表面は既に冷えて固まり、その上を歩くことが出来る。しかし、1メートルもない固まった溶岩の厚みは、その下に、依然として熱く溶けた溶岩を隠している。表面は冷えたとはいえ、まだそれ程の時は経ておらず、木や花はもちろん、植物と認められる姿も、ほんの僅かに見られるだけである。
この溶岩原表面世界が,根来村の意識界、言語で捉えられる意識界の光景である。つまり、新米巡査の退屈で暇なしの生き方なのである。しかし、根来村が無理矢理暗記させられた日の本の古典という連中は、言語意識界のすぐ下を、圧力を貯えた溶岩のように満たしていたのである。
粘性の低いハワイの溶岩は、突然、地層の割れ目から吹き出してくる。うかうかしていると危険である。しかし、溶岩原を案内するガイドはうかうかしていないのであり、また、噴水のような溶岩噴射が始まる予兆についても、それなりの経験を蓄積しているので、まあ安心であろう。
根来村溶岩についても、実のところいつ吹き出てきても不思議はなかったのだが、根来村はうかうかしていて経験の蓄積は皆無であるのみならず、そもそも「溶岩」の存在を把握していないのである。
「古典教養巡査」根来村と同じく、「家出少女I子」、つまりかってのK子の内面界も、溶岩原であった。
両者は同じ溶岩の上で生きていたのである。
しかし両者は、溶岩原表面ではまだ互いの姿を目にすることはない。ご両人の遭遇は、逮捕妄想を発展させながら歩む根来村が、小道を抜けて丘に登り、その向こうの斜面でお気楽に山菜を摘むK子を発見するまでは、お預けだったのである。