I子となるK子
K子の家出
「白馬に乗った王子様が迎えに来る」
K子の長年の夢である。
白馬マニアというわけではない。海にいるときなら、白イルカに乗った王子様でも良い。白海豚ではだめだけど、白イルカならば歓迎! ことほど左様にいい加減な乙女であった。
ある日、K子は家出をした。何が不満で家出をしたか、それは定かではない。思い出せないが、理由は在った。家出したのだから、理由は在ったはずである。しかし、今となっては、それはどうでも良い。そんなことよりも、家出生活というものは思ったよりも厳しかったのである。
家出も出家も、闇雲にやってもうまくいかない。それなりの仕来りがあるはずだ。どのような仕来りがあるのか、と訊かれると、家出も出家もしたことがないので具体的な仕来りは知らないのだが。
兎に角、こんなことならば、もう少しサバイバルの助けとなるお道具、例えば、十分な現金、母のクレジットカード、それから・・・思い付かないのだが、着替えをはじめとしてスーツケースいっぱいのお道具くらいは持ってきても良かったはずである。なんということか、K子が持ち出したのは、以前母からもらったルイヴィトンのバック(通称バケツ)だけだったのである。
そのバックに特別の愛着があったのかと問い詰められると、愛着があったと言って良いのかどうなのか。とりあえず、気に入っていたことは確かである。ブランド志向ではない。それなりの値段がするからでもない。単に気に入っていたのだ。使い古しを貰ったのではない。K子の母は、どこかのデパートでなじみの店員に勧められて買ってきたのだ。家に帰り「そうだ、あのバック」と思いだし、改めて見てみると、ちょっと大きすぎたのだろうか、兎に角、お気に召さなかったのである。そして娘にあげることにした。
K子は、「私の年でこのようなバックは似合うのかしら」とためらった。K子はよくためらうのである。その割には、家出はあっさりと実行したのだが。
K子母は言った。
「それ持って立ってごらん」
「可愛いたい」
親ならばこそである。かくの如き経緯を経て、バックはK子所有となったのである。
家出少女の持つ LOUIS VUITTON という他に、もうひとつ奇妙なことだが、K子の持つヴィトンのバックには何枚かのお札が入っているのである。だが、K子の貧弱極まりない金銭感覚では、そのお金で何週間暮らしていけるのか、などという評価は到底不可能だったのであり、その何枚かの紙幣の存在も、安心感を与えてくれるものではなかった。
つまり、K子はそのような金銭感覚の家庭で育ったのである。母は、そのような金銭感覚で暮らすことの出来る奥様であるだけでなく、お習字にお茶、俳句、和歌と幅広くこなすなかなかのお人であった。そしてK子は幼い頃から、そのような「豊かな教養」を注ぎ込まれて育ったのである。
I子となるK子
そのような「お嬢様」だったので、家出少女としての道は険しかった。
K子にとって、「お体を売る」という選択肢は無いわけでもなかった。ただし、正確には「売る」のではなく「貸す」だけであって欲しい。角膜にしろ、腎臓にしろ、はたまた心臓にしろ、死ぬかどうかは別にしても、取り出すのは痛そうだし苦しそうだし、兎に角お断りである。あくまでも、お体は「貸す」だけにしておきたい。しかし、 どうやってお客様を見つければよいのか これが問題である。「貸す」つもりが「売る」羽目になったのでは救われない。しかも、口封じに殺されてしまうことになるかも知れない。それでは、あまりにも悲惨である。恐ろしい。かといって、普通のバイトに雇ってもらうことも、家出の身では難しい。野良乙女としての生き方は、お気楽とはほど遠いのである。K子はとことん困ってしまった。 捨てる神あれば拾う神あり
誠にその通りであった。K子は姉御に拾われたのである。姉御は万引き・かつ上げ・置き引きとなんであれ、便利屋のように幅広くこなす、起業家であった。
姉御は、段ボールに入ってニャアニャアと泣いているK子を拾って帰ると、台所にあった缶詰を開けてやり温かいうどんを食べさせ、風呂に入れて良く暖めてから、寝付かせた。寒い季節だったのである。
翌日から、姉御は生きるすべ各種様々を、
「ひとつずつだぞ」
と言いながら、ていねいに教えてくれたのである。
姉御の指導その一は、名前を変えることであった。K子はI子という名を選ぶことにした。新しい名前に神経が反射するまで馴染むのは大変ではあったが、この訓練を通じて、K子はK子であるというK子を捨て、I子という新しい行き方を身につけてゆくのであった。
次の指導は、警察と「喧嘩の強い市民団体」のレーダーに捕捉されぬステルスな、そして「おとり捜査」に引っかからない自由恋愛的客引きの仕方であった。とは言っても、姉御の生存圏には、「お体を売る(貸す)」は含まれていない。もちろん、I子に勧めることもしない。ならば何故にこの御指導なのかと言うと、これは万一に備えての最終守備ラインなのである。最終守備ラインを築いた上で、そこから縦深陣地を展開して前線で戦おうではないか、という遠大な構想なのである。
さて、それではこの「最終守備ライン」において狙いをつけるべきターゲットであるが、姉御お勧めは予備校生である。初心者はまず初心者と戦え、ということであろう。適切な条件を満たす予備校生(理系コースであることが望ましい)を見つけて、いきなり
「相異なるk個の値を求めなさい」
と話しかけるのである。これは姉御が「BBジョーカー」から学んだ知識をI子(旧姓K子)用にアレンジした台詞である。
予備校生が桃色モードであれば、
「このアタイを求めなさい」
と聞き取るのである。その場で釣れなくても、数学の勉強をするたびに「お姉さん」の顔(本当に顔なのかな?)がちらちらするので、そのうちに自分からI子のもとへ戻って来るという仕掛けである。
おまけに、名前がI子で「以前はK子だったの」というのは、「謎」である。この年齢の男の子は謎に弱いのだ。謎は即ち神秘性であり、神秘性は即ち魅力なのである。
妄想力の貧弱な予備校生ならば、K子がI子となった原因に家庭内における(例えばお兄様との)あんなことやこんなことを妄想し、超限妄想法を覚醒させた予備校生ならば神秘的変容の領域に至るまで暴走し、K子(I子と言うべきか)は「女神さま」状態にまで祭り上げられるのであろう。
しかし、最も威力を発揮するのは、実は、「相異なるk個」の随伴表現「I子となるK子」を言語化された表現として意識で把握するには至らず、意識下における言語ステルス共鳴のみが生じている場合なのである。言語ステルス共鳴はステルスである故に把握できず、よって検討できず反論できず、ただそのステルス神秘のみがK子に「どこに惹かれているのかわからない神秘的魅力」を付与してしまうのである。
ジャスコの戦い
さて、訓練はするのだが、これは最終防衛ラインにおける非常手段であり、実行は想定していない。実際に行う最初の実習科目は、万引きである。ターゲットは「ジャスコ」であった。
親愛なるお姉様のご命令であり、また、家出少女としての生き方においての必修科目であることは理解していたのだが、K子にはハードルが高すぎる課題であった。
躊躇いに躊躇ったあげく、やっとの事で決意を固め唯一人ジャスコ駐車場までたどり着いたのだが、のし掛かるようなジャスコの威容を前にしてK子は足がすくんでしまった。そのまま、数分の間だろうか、ジャスコを見上げて立ちすくんでいたのである。
本人は気づいていないのだが、目に涙を浮かべ足は震え、その薄い胸にルイヴィトンをヒシと抱きしめ、今にもしゃがみ込んでしまいそうな儚さを漂わせながら立ちすくむその姿は、お年頃(十四歳から六十五歳まで)の男が見たら一生ついて行きたくなるほどの保護動物だったのである。
K子は怯えに打ち勝った。
おぼつかない足取りではあるが、入り口と書かれたジャスコの自動ドアを通り抜け、店内への侵入を開始した。 平日の早い時間である。客は少ない。蛍光灯の光で明るく照らされた店内であるが、K子の心象風景では、そこは暗く拡がる宇宙のような独りぼっちの空間であり、普段なら「買って頂戴」と親密感一杯に並べられた商品棚も、ゴツゴツした岩肌のようにK子を拒んでいる。そして暗い宇宙の彼方から、店員の視線が光線銃のように突き刺さってくる。
与えられた課題は、何か一品、万引きしてくることである。高い商品であることは要求されていない。だからといってステーキ肉のおまけの牛脂のような値段のないものではなく、ちゃんと値段のついた商品を一品とってこなければならないのである。
「K子、がんばれ!」
姉御のお言葉を頭の中で何遍も繰り返し、ヴィトンのバケツ型バックを抱きしめながら歩くうちに、K子は徐々にではあるが、落ち着きを取り戻してきた。少しずつ商品は商品として目に映るようになり、警備員にしか見えなかった店員も店員としての姿を取り戻し、そしてK子以外にも客がいることに気づく落ち着きも、戻ってきた。世界は動きを取り戻し、ジャスコは復活した。
その時K子が居たのは、園芸品コーナーであった。なぜか万引きの課題など忘れてしまっていたK子の目を引いたのは、商品棚の下段に置かれた小さなシャベル、握りが緑色のイギリス製園芸用シャベルであった。K子はしゃがんで、そのシャベルを手に取ってみた。手にピッタリ、と言うか、なんだか訳もなく、そして無性に欲しくなったのである。
さて、客観的に見て、K子の振る舞いは怪しいのである。そして、その日その時間のジャスコには、私服警備員が居たのである。警備員Nは、 かみさんのお買い物の間、その無限とも思える時間を手持ちぶさたに時間を潰す辛抱強く温厚なお客 の役を演じながら店内を歩いていたのだが、すぐにK子にロックオンした。警備員と言わずベテランの店員ならすぐに感じることなのだが、店内を歩くK子には商品を探す雰囲気も、誰かを待って時間をつぶすイライラしかけた雰囲気も、もしくは自発的に無目的な時間を楽しむのどかな雰囲気も、そして店員の死角を探して動きを伺うといった要警戒対象の特徴も、なにも無いのである。言うならば、奇行種に分類される客である。ロックオンを維持し続ける必要は無さそうだが、多少は気にかけて視線の隅に置いておきたい客だったのである。そして彼の立場からすれば妙な話なのだが、なぜか守ってやりたくなるような不思議な娘さんであった。
奇行種は次第に通常の暇なお客に変容し始めた。これは安心できる変化であり、そろそろ視界に確保しておかなくとも良いかと思い始めたのだが、ちょうどその時、園芸コーナーの棚に身を隠すかのようにしゃがみ、商品に手を伸ばした。警備員Nは警戒モードに戻った。彼女が手に取ったのは、類似品の中でもとりわけ高価な商品だったのである。
これは悲劇であった。悲劇のカラクリは、母との生活で培われた「お嬢様性」であった。K子はご幼少のみぎりより母の選ぶ「趣味の良い」品々に囲まれて育ち、知らず知らずのうちに「鑑識眼」が身についてしまっていたのである。値段を見ずに善し悪しのみで商品に手を伸ばす母と長年一緒に居た結果として、「K子が気に入って手にとると、それはいつでも良いお値段」という嘆かわしい運命を引き寄せてしまっていたのである。
なるほどK子は家出の結果として「お値段」という観点のある世界に身を置くことになったのだが、お値段界に飛び込んで間もないK子は、未だにその世界必須の習慣が身について居ないのである。英国製園芸シャベルを手に取った段階においても、値札は見ていない。ただ単純に、「良いなあ」と「欲しいなあ」というだけでシャベルを振ってみながら眺めていたのだが、その時、忘れかけていた暗雲が引き返してきた。万引きという課題である。突然、全身から万引き犯のオーラを放射し、真っ暗に戻ったK子の世界で恐ろしい葛藤が始まった。
ベテラン私服警備Nにとって、もはや疑う余地は無い。万引き犯の発する警戒心のオーラはイエスキリストの後光のように明瞭であり、こうなると後は、いつシャベルを隠すかという「いつ」だけの問題である。これは、ありふれた何時もの状況であり、警備の仕事としては、実行を確認し店を出た瞬間に捕捉すれば良いだけのこと。
明らかに彼女は、常習的万引き犯ではない。初犯であろう。したがって、厄介な反撃を心配する必要はない。声をかけた瞬間に、絶望に震えながら全くの無抵抗の反省モードに変わるのであろう。しかし、これは彼にとって初めての経験なのだが、この小動物のように怯えながら万引きをしようとする女の子が、なんとも可愛そうになってしまったのである。危地の乙女である。いじめで強制されたのかも知れない。こんな純真な子に犯罪を犯させるのは、あまりにも可愛そうだ。
N氏は、私服警備としてはあり得ない行動なのだが、警備行動の攻撃性丸出しの足取りでK子に近づいていった。
K子の真っ暗な宇宙の果てから、惑星をも貫くニュートリノ銃を手にした敵が襲いかかってきた。無力なK子は、もはや逃げ切ることは出来ないことを知った。冷静に考えれば、いや、冷静という程のこともなく少しでも考えれば、手にしたシャベルを商品棚に戻すだけで良いのだ(これが N氏の望んだ行動である)。そもそも、戻さずとも手に持ったままでもよい。K子はまだ何もしていないのである。しかし、K子は万引きを実行しなければ、という義務感で押しつぶされていたのであり、そして、K子の世界ではK子の手にあるシャベルは既に万引きしたものであった。
絶望の内にとったK子の行動は、およそ理性からも理屈からもかけ離れた奇妙なものであった。万引き犯K子(K子の自己認識である)は、捕食者から逃げ切ることが不可能と知りながらも必死に走る小動物の如き、絶望的逃走を図ったのである。同時に、人のものを盗るなどということを許容できないK子の性格は、K子にとっても思いもつかぬ突拍子もない行動をとらせた。
「ごめんなさーい!」
K子はルイヴィトンのバケツ型バックから見もせずにお札を取り出し、それを商品棚に置くと、シャベルを手にしたまま必死に走ったのである。
警備Nは、反射的に追跡行動に移りK子のしゃがんでいた商品棚の所まで走ってきたのだが、そこで目にしたのは、棚に置かれた一万円札であった。
いくら舶来もののシャベルといっても、一万円はしない。レジではないとはいえ、これでは買い物である。「お客様、お釣りを」と言って追いかけるべきであろうか。いや、実のところ、初老の私服警備員Nは、もはやそんなことは考えていなかったのである。
「可愛いなあ!」
N氏はなにもせず、その場に立ちすくんでしまった。
姉御
さて、思いもかけず逃げ切ることの出来たK子であるが、左手にルイヴィトン、右手にシャベルを持ち姉御の待つコンビニ前の広場に向かううちに、とんでもないことをしてしまったことに気づき始めた。
「わたし、お金払ってしまった」
そして、おずおずと姉御に戦利品のシャベルを差し出し、己の犯した過ちを自白したのである。
姉御はあきれ果て、ため息をついた。だが、今にも張り倒されるか、追い出されるかと身をすくめ涙をためて震えている不幸少女、と言うか、むしろ小動物のような姿を目前にすると、「あきれ果てる」ということさえ惨いような気がしてくるのであった。
姉御は、もう一度、深いため息をついた。
「なんて可愛いんだろう」
姉御はカウンセラーのような心持ちになり、保護モード一杯でK子を慰めにかかった。
「うん、まあ、初めてとしては上出来だよ」
「一万円は惜しかったけどね、また稼げばいいさ」
(本当は、一万円を失ったことが問題ではなく、万引きになっていないということ故に落第なのだが、姉御はわざと論点を逸らしているのである)
(優しい姉御さんである。人間社会で避けられない緊張、これに立ち向かう訓練はこれからも続けなければならないのだが、今日は人間社会から離れて、原っぱでのんびりしておいで、ということである)
K子はとても嬉しかった。K子は賢い子であったので、姉御があきれていることも、そして、あきれているのにこんな事を言ってくれたということも、それから、なぜこんな事を言ってくれているのかということも、すべて正しく察していたのである。ただし、それを言語化して察していたわけではないので、「感じていた」というべきなのであろうが。
K子はお散歩に出かけた。そして「これからのわたしの一生、お慕いしながらずっとついて行くのです」と決めたお姉様のために、「このシャベルで山菜を採ってきておひたしを作ってあげましょう」と考えたのであった。
世界は残酷に出来ているのかも知れない。
姉御の優しい気遣いと、そしてそれに精一杯答えようとするK子の気持ちこそが、私服警備の魔の手からも逃れたK子が、山菜盗りの現場を根来村に見つけられ、捕えられ、姉御から離されてしまう因となったのである。