喪失とそれから
枯れ井戸の底にしゃがんでいるような、喪失感しか無いそれからの時間。なにもする気になれないのです。井戸の底は枯れ葉で覆われ、空気は冷気を含んで重く、しかし枯れ葉の下にも命の気配はなく耳鳴りさえ聞こえません。郵便受けを見に行く気にもなれません。部屋の明かりをつけるのも煩わしく、と言うのか、この世界を見たくなかったのかもしれません。暗い部屋に寝転んで時間だけが経って行き、つまりのどは渇くので蛇口から水を飲み、冷蔵庫からいい加減に取り出したチーズをかじり、そして何回もトイレに行ったのですから、ちゃんと周囲の時間は流れていたのでしょう。
最後の十世代での、彼らの姿だけが浮かんできます。でも、それは何と言うのか、機械で供給される血液と人工栄養だけで「生存」している、首から上だけの頭が反芻する記憶のようなもの、という所でしょうか。懐かしいとか悲しいとか、そういった感情にはつながらないのです(もしかしたら、感情というものは頭ではなくて体に生じているのかもしれませんね)。ただ、あの時には存在したのに、今は存在しないという真っ暗な喪失を確認するだけのことなのです。
パンをくわえて走ってくるクララさん。
兵舎の閉ざされた大きなゲートの近く、街灯に照らされて佇むクララさん。Katz さんがこの門を出て前線に行くのを見送ったというのに、毎日ここで待ってたからといってどうなるものでもないのに。
人通りもまばらになった夜更、具体的には十一時頃、ゆらゆらと瞬くローソクの燭台を傍らに、街角に座ってバケツの水で足を洗うメイさん。長い黒髪が露わな肩を隠し、冷たい水がふくらはぎを濡らし、何という大人のお色気なのでしょう。まだ十七歳なのに!
街灯の灯りの下、旅行鞄を足下に置いていつまでも待ち続けるクララさん(街灯が好きなのでしょうか)。駆け落ちの約束をしていたのに、結局、彼は現れなかったのです。
木陰で仲良くお弁当を食べている三人を、グランドの金網を握りしめて見ている Auer くん。
学生寮の食堂、儀式張った集会での Auer くんと Katz さんの時代遅れの決闘シーン。
溺れかけたクララさんを小脇に抱えてかっこよく泳ぐメイさん。もちろん、クララさんの服は脱げないようにしっかりガードしてあげて、そしてご自分の服は脱げかかっているという気配りは忘れていません。
なぜか和風の部屋に敷かれた布団に裸で仰向けに横たわり、寝ているのか起きているのかはともかく目を閉じていて、かけ布団はおへその少し上の所までしか覆っていない、という姿の娘さん、これは誰だっけ・・・ ?? ・・・ ああ、これは保健センターで受けた「ケア」のときに見せられた図版ですね! まったく、こんな絵を見せて「どういうシーンですか」とお題を出すだけで元気が出るくらいなら、はなっから落ち込んだりしないのに。
なんだか、混乱してきました。どれか一つの生涯で良いから、ちゃんと、ストーリーの順番通りにシーンを並べてみましょう。
とても幸せなそうなクララさんと Katz さん。密かにクララさんのことが大好きな、でも Katz さんの親友である Auer くん。それから本当は Katz さんが大好きな、お姉様タイプのメイさん。今回は、四人は似たような家庭に育った幼なじみの仲良しです。
そして、体の具合が悪そうなクララさん。「あと数年の命」とあっさり本人に告知するお医者さん。
それからの四人はと言うと、だからこそ Katz さんはクララさんにプロポーズしたいのに、それを言わせないように冷たく振る舞う「自暴自棄のクララ」さん。どうして良いか分からない Auer くんと、「思いもよらず Katz さんは私のものに」という不都合でない事実に罪悪感を抱くメイちゃん。この二人は「クララさんと Katz さんのために」という道を選ぶことを誓い、しょっちゅう二人で会って相談をすることになるのですが、そうこうするうちに、二人はあんなことやこんなことをしてしまうようになり、それはともかく、病室で十九歳のお誕生パーティーを迎えます。
長いこと眠っていたのですが(婉曲な表現です。直裁に言うならば、意識が混濁していたのですが)、そのときクララさんは目を開け、Katz さんは、もう後先考えずにプロポーズをします。嬉しそうにうなずくクララさん。Auer くんの肩に顔を埋めて泣いているお姉さま。すべてを達観した表情の Auer くん。
でも、カーテンの陰から私が姿を露わそうとしているのです。これこそが、ハッピーエンドなのではないでしょうか。
彼らは、存在したのです。存在して、いろいろなシーンがあって、けれども、涸れ井戸の底にしゃがんでいる間、そのシーンはただ映像として復元されるだけだったのですが ・・・ 気がつかないうちに、私の「首から下の体」は少しずつ戻って来ていたようなのです。シーンは自然に流れに沿って浮かんでくるようになり、そして、やや唐突にシーンは「私の世界のシーン」となったのです。
旅行鞄を虚しく用意して待ち続けるクララさん。あの時の、ほとんど衝動に近い感情が戻ってきています。飛び出していってクララさんを抱きしめ、「何も心配しなくて良いんだ」と「結果」を教えてあげたい。
私の体は復活しています。そして、私は街灯の下に佇むクララさんのとても近く、クララさんの悲しさと一緒にいて、それ故に「教えてあげたい」という衝動がこみ上げてくるのだけど、同時に、「結果」までを知っている遠くからの視線は、このシーンに暖かな色彩を見ているのです。頭蓋骨の内側、頭蓋骨の天井の辺りは冷たいソフトクリームで満たされていて、それが暖かく脈打つ心臓まで滴り落ちてくるような、あの感覚。そう、訳の分からない喩えですね。それでは、落雷を受ける直前に、頭にはめた孫悟空の輪っかのような架空の存在が帯電して、頬から体の表面をジーンとした震えが拡がっていき、しかも、落雷なんか気にもとめない完結した瞬間。ますます、訳が分からない喩えです。しかも、この二つは違う状況なのでしょうし。いったい、どうしたのでしょうか。そう、確かなことは一つだけ。体は復活したのです。
暗い部屋の中で、思い通りに動いてくれない体を宥めながら、立ち上がります。ずいぶん長い間、外の世界には知らんぷりをしてきました。そろそろ、郵便受けくらいはチェックすることにしましょう。ゆっくりと玄関に歩いて行き、でも、考えていることは、さっきの続きです。気になっていたことがひとつあるのです。クララさんに教えてあげたかった「結果」は、十九歳の誕生日までの、彼女の納得と理解なのでしょうか。それとも、もっと長いスケールでの「結果」なのか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、玄関にたどり着き、郵便受けに一通だけ入っている見慣れた封筒を開きます。そして、それは周りの世界を消し去ってしまう衝撃。 一瞬の混乱があってですが、すぐに理解しました。簡単なことだったのです。始まりのない無限の生まれ変わりを続けてきたあの四人、クララさん、メイちゃん、Auer くん、Katz くん。彼らに関する限り、担当者は私だけだったのです。
彼らは原因と結果の流れのなかで、しかしいわゆる歴史としての時間の順序とは関係なく色々な時代に生まれることを繰り返し、私は最後の十回を担当したのです。その「最後の十回」ということの意味は、彼らにとっての「原因と結果の流れ」という順序での最後の十回ということ。この順番を守って、最後の十回を見守ってきたのです。でも、「この順番を守って」ということに必然性はなかったのです。と言うか、すべてでこの順番を守ろうとしても、私には「初回」があるのに彼らには「初回」が無い以上、不可能なのです。だから、Es が採った指示は、最後の何回かだけ「原因と結果の順番」を守り、残された無限回については基本的にランダム、ということだったのです。結論は ということ。
さあ、お仕事に行きましょう。
思わず指示書を握りしめ、指示書はグシャグシャです。何という幸せ。私にとっての過去に、彼らは存在したのです。そしてこれから、彼らの誕生日に立ち会います。そして十九年の生涯を生きる彼ら。最後の十回は、それは私にとって過去なのに、これから会う彼らにとっては、将来の世代が生きる未来の出来事。
もう、私は不定冠詞なのか定冠詞なのか迷うような、抽象概念とか言われてもしょうがないような、情けない誕生日神ではありません。それは、もはや過去のこと。今や、立派な定冠詞付きの誕生日神。 しかも、わたしは「彼らの」誕生日神なのです。
そうです。彼らの誕生日神は私だけ。そして私の受けるお仕事は、これからは彼らだけ。
今、あの最後の瞬間の「だいじょうぶ」という意味が分かる気がします。過去・未来・そして現在という三世を超えて、過去・未来・現在という「誤り」を知った故に、彼らに畏れはなく、そして超えていったのです。どこに? それは、今の私には分かりません。でも、それは、今はどうでも良いのです。
涸れ井戸の底の世界は、もう在りません。世界は豆カンの寒天のような、お好みによってはクリームあんみつの寒天でも良いのですが、寒天のようなもので満たされ、家も地面も、木も花も、すべてそこに写る影のようなもの。それなのに、花はクリームあんみつを飾るサクランボのように生き生きとそこに在り、空を見上げると、雲の間の青い空は宇宙まで突き抜けるよう。この瞬間のためならば、彼らのように無限の繰り返しを生きても良いくらい。
でも、こんな気持ちもすべて、これから彼らに会いに行くから。さあ、それでは幸せな誕生日神は、これから、かって存在した彼らに、一人も欠けることなしに存在した彼ら一人一人に、かって最後の十世代の最後の一瞬を迎えた彼らに、そしてこれから最後の十世代を過ごす彼らに会いに行くことにしましょう。もはや、時制も文法も超えた本当の在り方を歩み、そしてそれを超えて行くために。