ゲームとしての相互確証破壊: 現実の世界

現実の世界

パスの制限

それでは,さらに \(p>3\) とした場合,別のトリックで帰結が異なる例があるかと言うと,おそらく存在しないと思う。しかし,証明は分からない。仮に存在するとしても,そのような例を作る気力(と思考力)は,残っていない(そもそも最初からあったのか,疑問だが)。 \(p=2\) と \(p=3\) で帰結が異なる例を作る作業も,とにかく,大変だったのだ。

現実の世界の問題としては,\(p=2\) と \(p=3\) で帰結が異なる例も,ほとんど意味を持たない。\(k=\ell=0.8\) という大きな数値を選んだにも関わらず,配列の数値には微調整が必要で,ましてや,\(k=\ell=0.2\) で \(k\ell=0.04\) というケースでは,(存在するとして)もっとギリギリの調整が要求される。このような配列が,偶然生じる確率は,極めて少ないはずだ。

しかし,それ以前に,\(p\) の値により連続パスの回数制限を決めるという設定自体,現実離れしている。一体誰が, パスの回数が制限値になったので終戦 と強制できるのだろうか。そのような状況は,想定しづらい。

それにも関わらず,連続パスの回数制限は必要であり,この制限を置かないと「合理的意思決定」という定義が定まらない。例えば,パスの制限がない場合に, $$ I = \begin{pmatrix} 8.4 & 8.3 & 1.5\\ 11.0 & 5.4 & 5.2 \end{pmatrix} $$ という配置では,
  1. \(A\) はパスをすることにより, \(B\) が攻撃を選択することを期待して,
  2. \(B\) は現状の \(I\) が最も望ましく,また, \(A\) は攻撃をせざるを得ない状況に追い込む心配もないので,現状のまま終わることを期待してパス,
という,両者が永遠の待機を続けるという可能性も考えなければならない。

しかし, \(A\) は現状の \(I\) は好まないので, \(B\) が攻撃をしてくれないならば,自分から攻撃をしたほうがましである。つまり, \(A\) はいつかは攻撃を開始するので、それならば, \(B\) は先に攻撃を選択した方が良い。とは言っても,それでは \(B\) は直ちに攻撃を選択すべきなのかというと,これもまた,「再帰的に決定される」といった論理的根拠を欠く。

本当のところ, \(A\) はいつかは攻撃を開始するので,と言い切れるのかも,怪しい。

アキレスと亀のストーリーを,もう少し現代風にして,アキレスをチューリング,亀を少年に置き換えてみよう: チューリングは少年の居た場所を通過する度に,チューリングマシーンを \(1\) ステップ進める としてみたらどうだろうか。現実の世界では,チューリングは少年に追いつくことができる。しかし,そのときのチューリングマシーンは,停止問題の解を与えているのだろうか。チューリングマシンは故障していないだろうか。もしくは,チューリングさんは生きているのだろうか。

このような問題は,ゲーム理論風味の表現がとられていないだけで,たぶん,樽金の時代よりも古い問題なのだろう。

それはともかく,「永遠の待機」を避けて,かつ,\(p\) の値による「奇妙な例」を排除するためには, 初期配置と \(C\) の値が与えられている状況で,プレーヤー \(A,B\) は,それぞれ,希望する \(p\) の値を宣言する。連続パスの制限回数としての \(p\) の値は,両者の宣言した値の最大値とする としておくのが,簡単だと思う。

それならば,最初からそうしておけば良かったのだろうが, \(p=2\) でも充分ではないか という疑問に答える例を,かなり苦労して作ったので,それを捨てがたかった。

それともうひとつ,確か「戦争と平和」のなかで, 戦争はチェスの勝負のようなもの という表現があったと思う(もちろん,トルストイの立場は,この真逆)。戦争をチェスの勝負と考えるならば,\(p=3\) の場合に可能になる, 手渡しという現代将棋ならではの高級戦術 は魅力的な事例となるだろう。しかし,考えている戦争は,ボロジノの戦いではなく核戦争なのだ。

先手後手の問題

先手有利の配置の例では,\(p\) の値は本質的でない。先手が有利という状況は,相互確証攻撃の世界に「先制攻撃」の合理性を持ち込んでしまうのであり,これは,困ったことだ。

幸いなことに,先手有利となる配置も,\(k\ell\) の値が小さいならば,微調整の結果として存在が許される「希な例」なので,現実には,無視しても良いのだろう。

それでも無視しないで,もう少し見ておこう。ここで作った例では,確かに先手有利ではある:

  • \(A\) が先手ならば,\(\varphi^{fl}_A = 9.5030,\quad \varphi^{fl}_B = 0.0002\)
  • \(B\) が先手ならば,\(\varphi^{fl}_A = 9.5010,\quad 5\varphi^{fl}_B = 0.9798\)

しかし,両者の違いは, \(B\) にとっては \(0.0002\) と \(0.9799\) と大きな差がある反面, \(A\) にとっては \(9.5030\) と \(9.5010\) という僅かな違いでしかない。

ゲームの規則では,プレーヤーは自身の最終的価値関数のみにより行動を決定するのだが,現実世界でこのゲーム(と同じ状況の紛争)が行われているならば, \(B\) は, \(A\) に何らかの利益供与を行い,先手を譲ってもらう というゲーム外取引を行うことになるだろう。

状況を純粋なゲームとして抽象化することが可能であっても,ゲーム外取引まで禁止することはできない。考え得るゲーム外取引を列挙して,新たなゲームを想定したとしても,そのゲームに対しての新たなゲーム外取引が生じることまでは,おそらく,排除できない。

ここで調べたような,純粋なゲームに対しても,合理的判断ということの定義は問題を含む。これが現実の世界となると,合理的ということ自体,かなり危うい概念となる。

ゲーム外取引は,ゲーム理論風の「合理的判断」には馴染まない。そして,「ゲーム外取引について閉じた拡張」を想定することも,難しいのだろう。

ゲーム外取引

先手後手が絡む微妙(で作為的な)例でなく,\(k=0.2,\,\ell=0.3\) で $$ \begin{pmatrix} 5 & 0\\ 7 & 3 \end{pmatrix} $$ のような, \(A\) が \(b_1=7\) を攻撃することが合理的なケースでも, \(B\) が \(A\) に対して \(a_2 = 1.5\) の都市を寄贈する というゲーム外取引が可能だとすれば, \(A\) に攻撃を思いとどまらせることができる。

おそらく,合理性に基づく 相互確証破壊攻撃による平和 というものが存在するとしたら,このようなゲーム外取引を駆使した結果なのだろう。

Remark. ただし,\(a_2 = 1.5\) を寄贈するので攻撃を思いとどまれ,という交渉となると,これは,どうなるか分からない。 \(A\) が,「\(b_1 = 7\) を失わずに済むのだから,もっと大きな \(a_2\) の値にしろ」と主張するかも知れない。交渉では,自己の利益だけでなく,相手の不利益も交渉材料となるのだから。

自己束縛による安全保障

配置 $$ \begin{pmatrix} 5 & 0\\ 7 & 3 \end{pmatrix} $$ でプレーヤー \(B\) が 攻撃を受けたら全面攻撃による報復をします と宣言しても,プレーヤー \(B\) が 合理的判断をすると信頼されているならば ,やはり,攻撃を受けてしまう。この配置のままで攻撃を避けたいならば, 攻撃を受けた場合には,自動的に全面攻撃による報復が行われる という自動化をしてしまえば良い。そのためには,機械的な自動化以外にも,安全保障会議で力を持つガチガチの軍人,最後の審判を待ち望む大統領,絶望により死を受け入れる国民性,すぐに腹を切る理解不能なおかしな人たち,など,要するに,非合理性を相手が充分に危惧する状況を作ってしまえば良い。しかし,これは,チキンゲームの誘惑へ道を開く。

世界の終わりの常識と理性(?)

例えば,既に半数の大都市が全滅している状況において,敵国への全面的核攻撃を行う決断は,映画の大統領役の主人公に相応しい行動ではある。その結果,残りのすべての都市も全滅するのだが。それでも,古くからの戦争の常識に基づいた苦悩の決断ではある。

それに反して,

自国において爆発させるのであり自国は全滅するのだが,爆発の結果の放射性物質の汚染により,敵国も全滅する特殊な核兵器
のスイッチを押す決断となると,どうなのだろうか。結果は変わらないにしても(敵国以外その他の国々がない世界としておく),これは,あまりにも御無体であり,ご乱心としか思えない。これは,ヒーロータイプの俳優には向かない。小説ならば,なんとか読者に「苦悩の決断」を納得させることができるかも知れないが,映画となると,とても変な人としての演技に徹するしかない。

自国のなんらかのシステムエラーによる攻撃により,配置 $$ \begin{pmatrix} 5 & 0\\ 7 & 3 \end{pmatrix} $$ の状態を招いてしまった \(B\) 国の大統領が, \(A\) 国が \(b_1=7\) を攻撃する前に,自国の \(b_1=3\) を攻撃しておく という苦渋の決断を下すシーンも,小説なら描くことができるにしても,現実の世界では実行不可能であろう。それが自国の破滅を防ぐ唯一の手段であったとしても,そのような命令は,実行されない。つまり,大統領は,このような合理的解について考慮することはあっても,実現不可能な案を決断するとは,考え難い。

要するに,核の均衡という新しい状況の当事者であっても,やはり,幸か不幸か,古典的常識に縛られているのであろう。こうなると,もはや,分析不能な世界なのだが,合理的判断により安心して攻撃を選択する世界よりは,常識と理性その他の「文系世界」の方が,常識を変えて行く道があるだけに,救いがあるのかも知れない。

ただし,常識的気分に振り回されて合理的判断というものを全否定してしまうのも,また,危険である。攻撃が古典的戦争の掟で許される状況でない場合, $$ \begin{pmatrix} 5 & 0\\ 7 & 3 \end{pmatrix} $$ という配置であっても, \(A\) は攻撃を実行しないこともあり得る。その理由を, 「\(a_1=7\) を攻撃しても, \(B\) が本当に「合理的」に判断して攻撃を思いとどまる,と断定して(良いものか迷うこともなく)攻撃を選択するのは,理性的判断ではない」 と言うことも,正しい。それでも, \(B\) の立場なら, \(A\) の「合理的判断」は攻撃であることは,意識しておくべきだろう。 $$ \begin{pmatrix} 5 & 1.5\\ 7 & 3 \end{pmatrix} $$ という,現状維持が双方にとって合理的な場合とは,やはり,安定度が異なるのだから。

確実な安定を望むなら,「利益供与」により \(A\) に \(a_2 = 1.5\) を与えれば良い。だが,「理性的なら攻撃は選ばないはず」に頼って「合理的判断」などは机上の空論と思い込んでしまっていると,このような「利益供与」に反対するかも知れない。特に, \(B\) 国が正義(宗教的な,または,普遍的価値に基づく正義)の側で,その立場から \(A\) 国を非難している場合は,利益供与を「合理的な判断」の議論で説得しようとしても,難しいだろう。

やはり,限界と危うさを認めた上で,現実世界においても「合理的判断らしきもの」を分析し続けることは,必要なのであろう。相手の合理的判断を信頼して攻撃することは理性的ではない。明らかに,相手の合理性を信頼しすぎている。同時に,合理的判断に影響されずに(理性的に)行動すると信頼してしまうのも,また,危険に満ちているのだ。少なくとも,どのような「合理的判断に影響されずに」いるのかだけでも,認識しておくべきであろう。

「非常識」な結論

特に Example 2 のような「非常識」な結論について感想を:

ゲームから離れて現実の世界を想像してみると,おそらく,A 国から \(b_1\) を消滅させる部分攻撃を受けた状況で報復を行わない B 国大統領など,存在し得ないであろう。大統領自身は報復を躊躇うかも知れない。しかし,最高意思決定者を取り囲む制服着用のスタッフたちの,また,キャリアを安全保障に関わる分野で築き上げた専門家たちが共有する「常識」に対抗して「理性的決断」貫き通すには,あり得ないほどの統率力が必要なのだ。

ましてや,敵国の攻撃が確実な状況であっても,最悪ではない悪夢を選ぶために自国への部分攻撃をするという選択は,命令できたとしても実行される可能性はなく,大統領は,そのような選択肢は考慮すらしないはずだ。例えばバートランド・ラッセルが大統領ならば,そのような選択肢を考えてみるかも知れない。と言っても,後の彼が平和主義者だったからではなく,ソ連が核兵器を持っていない時期に予防戦争が合理的だとまで考える程に,「論理的」だからなのだが。しかし,そもそも,最高意思決定者を取り囲むグループは,たとえ制服組でなく,また安全保障の専門家でなくとも,このようなグループのなかで生き残ってきた「専門家」連中で構成されているのであり,彼らがキャリアを築き上げる過程で構築してきた「イメージ」から完全に外れている「夢想家」が,大統領候補に選ばれることはない。つまり,バートランド・ラッセルが大統領に選ばれる可能性はないのだ。

指揮所での意思決定は,自由意思により決定されると想定されているにも関わらず,現実には,かなりの程度まで自動化されていると考えるのが,妥当であろう。つまり,ゲームを設定しても,現実の世界とのギャップはあまりにも大きく,現実の世界の理解には繋がらない。

それにも関わらず,このような純理論的解析は,必要だと思う。地上世界では

駆動力を加え続けない限り,運動する物体は必ず止まってしまう
が現実だが,現実ばかり見ていたのでは,慣性の法則への道は開かれないのだ。仮想的なゲームは,少なくとも,トップグループで生き残るために必須の「イメージ」,それは彼らがキャリアを登り詰める途上で共に磨き上げてきたものでもあるのだが,この「イメージ」を分析するためには,役に立つのではないだろうか。彼らは,小学校入学以前からピアノの練習を継続してきた専門家と同じく専門家であり,限りない努力の賜物として,一般人にはうかがい知れぬ高みまで到達したのだろう。仮想的ゲームの結論は「非常識」なのだが,東部総合計画,あるいは,\(1950\) 年代のソ連への(ついでに,中共への)全面攻撃の計画などは,一般人から見れば,やはり「非常識」であることに変わりはないだ。

面積(小学生の疑問)

小学生ならではの質問 長方形を2つの切って分割したら,切り口ばどっちに入るの? に対する答えは,「気にしなくても良いんだ」が妥当だと思う。うっかり 線分の面積は \(0\) なのです と答えるのは,考え物。

小学生の間は良いのだが,高校で無限級の和を学んだ途端に,やっかいなことになるはず(なのだが,実際にはだれが疑問に思っただろうか)

\(xy\) 平面の正方形 \(E = \{(x,y)\,\vert 0\leqq x\leqq 1,\quad 0\leqq y\leqq 1\}\) を \(x=a\) で切った線分を \(\ell_a\) で表す。その面積 \(S(\ell_a)\) は \(0\).区間 \([0,1]\) の点に, $$ a_1,a_2,a_3,\ldots $$ と番号を付けて列挙しておくと, $$ [0,1] = \{a_1,a_2,a_3,\ldots \} $$ であり, $$ E = \ell_{a_1}\cup \ell_{a_2}\cup \ell_{a_3}\cup\cdots\cup \ell_{a_n}\cup\cdots $$ よって, $$ S(E) = \sum_{n=1}^\infty S(\ell_{a_n}) = \sum_{n=1}^\infty 0 = 0. $$

これは,困った事態だ。残念なことに,高校生に可算・非可算などと言っても通じない。

可算性を利用しなければ面積や体積をまともに扱えないのだが,理工系大学生も含めてほとんどの人たちは,そんなことなど気にせずに,安らかな気持ちで面積や体積の極限を計算しながら暮らしている。まあ,普通の曲線や曲面で囲まれた面積や体積を扱っているならば,それでも切り抜けられるので,これで良いのだろう。

高校生にとっては未知の概念「可算性」に頼らずに,かつ,厳密な議論を展開したいならば,ひとつの方法は,有限の世界に持ち込んでしまうことだろう。例えば,ミカン箱の体積を,「単位長さの半径の球体を何個詰め込むことができる」かでもって定義してしまえば良い。

ただし,この場合には,パッキングのやり方という幾何的な問題がつきまとい,有限の世界固有の難しさに悩むことになる。

さて, 何を言いたいのか だが,\(p=3\) と \(p=2\) などという問題は,パッキングの問題同様に技巧的に難しく,また,それはそれで面白いテーマなのだが,リンゴを詰め込むことが測度論の代わりにはならないのと同じく,本来のテーマからは充分に外れている。

それならば,有限性を持ち込まないで正面突破を試みれば良さそうなものだが,おそらく,測度論が可算性というキーワードなしには構築できなかったのと同様に,相互に相手の推論を推論しうる推論というものに対しても,未知の「なにか」(もし,それが存在するならば)を見つけ出さない限り,まともに扱うことは無理なのだろう。

さらに,もう一言。代数的閉体にせよ,σ- 加法性をもつ測度にせよ,ゲーデルの完全性定理にせよ,なんらかの「閉じた」ものを構成するという試みは,難易度の差があるにせよ,とにかく成功した。しかし,それをゲーム理論で期待するのは,おそらく無理。自己参照に絡む以上,「なにか」は論理そのものに関わるのだろう。

そこで登場するのが「プレーヤーを,なんらかのマシーンにしてしまう」というイージーなアプローチであり,これではゲーム理論とは言えない。しかし,困ったことに,現実の世界の「専門家集団」は,マシーンとして分析した方が適切な対象なのかも知れない・・・・・・と言うわけで,意思決定機関をマシーンのように分析した書物が書かれるのだろうが,残念ながら,これらのマシーンは,それらの書物を読むことができるのだ。