鏡映の犬,肉を放す
お犬は,辛抱強く待ち続けました。早くご主人さまに纏い付いて身体中ワシャワシャして貰いたいのですが,待ち続けます。お仕事中のご主人さまは,邪魔をされるのがとてもお嫌いなのです。
「伯爵様」と呼ばれるこのご主人さまは,いつもはコチャコチャと字を書いているのですが,今日はなんかお考えらしく,じっとしていると思うといきなり右手を挙げて,うなずくと手を下ろして考え始め,しばらくじっとしていて,また手を上に伸ばしと繰り返しています。ご主人様が手を挙げるたびに,お犬は遊んでもらえるのかと尻尾を振るのですが,そうではないようです。もう,灯りのない書斎は暗くなってきたのに,相変わらずこの繰り返しです。
伯爵様は,ロシアにたくさんいる伯爵というだけでなく,トルストイという結構名の通った作家で,そのとき「自由意志」というやつについての考察をなさっていたのです。何年か経ってからのことなのですが,伯爵様はその考察を論文のような形にまとめました。それならそれで,結構なことでございます。それなのに,何を間違えたのかその草稿を,普段からしつこく伯爵邸に出入りしているピュートル・ニコラーエヴィチ・シンシンという名の嫌な奴に見せてしまったのです。シンシンは一読して, などと,慇懃にして冷淡極まりない評を浴びせかけました。
当時のロシアには「チラシ」という名の物体は存在しなかったので,伯爵様は何を言われたのか分からなかったのですが,シンシンの嫌らしいまでに素っ気ない表情は,伯爵様から,この草稿を論文としてまとめる意欲を根こそぎ刈り取ってしまったのでしょう。
「チラシ」という謎の単語が伯爵様を混乱させ,そして,ナポレオン嫌いが混乱に拍車をかけ,なんと言うことでしょう,「戦争と平和」という名作の最後にこの論考を付け加えるという,とんでもない暴挙に至ってしまったのです。これはまことに残念なことであります。
さて,お犬が退屈している書斎に戻りましょう。お犬の辛抱は限界に達しました。そっと伯爵さまの足下に近づき,控えめに鼻の頭をこすりつけます。
「過去を原因として決まる現在の行為」と「自由意志」の関係などというものを一心不乱に考えているにも関わらず,このレベルのお人ともなると,「将来を原因として決まる現在の行為」などというものもあるらしく,伯爵さまはお犬が邪魔してもお怒りになりませんでした。
それでは,どのような「将来を原因として」なのかと言うと,このお犬は,ずっと後のことですが,シンシンがうっかり尻尾を踏んづけた機会を逃さず,立派な歯形が残るくらい思いっきり噛みつくというお手柄をたてたのです。
なお,「お手柄をたてたのです」であって,「お手柄をたてるのです」でない点は大切です。「将来を原因として決まる」ということは,「未来予知」でも「運命論」でもないので。
このお手柄の作用により伯爵様はお怒りにならなかったのですが,仕事を中断する気はありません。執事のヘルマン・ホートさんを呼んで,小間使いにお肉を持って来させるよう命じます。そして,小間使いのイスース・ホート・タタライスカヤさんが持ってきた立派なお肉を,お犬に与えます。
「良い子だから,これを持って外で遊んでおいで。」
お犬はお肉をくわえて,喜んで走って行きます。書斎から出ると,まだ外は明るく,肉汁は口の中にジワジワっと染み出してきます。幸せのお犬は川の方に走っていきます。
嫌な予感がしますね。お犬は橋の上で水面に映った己の映像に吠えて,お肉を落としてしまうのでしょうか。
残念なことですが,現象としてならば,「お犬は肉を落とす」という結果は変わりません。御存知のように,肉をくわえた犬が橋の上から水面を見下ろすと,肉を落とすことに決まっているのですから。でも,このお犬は,それでも幸せいっぱいでご主人さまの書斎に戻って行ったのです。それは,このような経緯です:
お犬はお肉をくわえて幸せいっぱいで走っているのですが,頭の片隅には,と言うか尻尾の先っぽには,「ご主人様はなにをなさっていたのだろう」という気がかりが引っかかっていたのです。ご主人さまが考え込むのはいつものことですが,ひとりで右手を挙げたり下ろしたりしてみて,何が分かるのでしょうか。何も分からないことくらい,お犬でも分かります。ちょっと心配です。
でも,きっと,ご主人さまは何も分からないことをご承知でやってみてるんだ。何度も何度も。立派なご主人さま!
お犬の尻尾は,元気よく振られています。
お犬は,自由意志により川に走って行き(正確に言えば,特に考えることなしにという自由意志により),川にかかる橋から水面を見下ろします。これは「お話」というものにおける必然ですね。
下からは,肉をくわえた鏡映の犬がこちらを見ています。
不思議なことですが,イエイヌは飼い主に似てくるのです。お犬は考え始めました:
あの犬に吠えると,肉を落とすなあ。 吠えると口を開けるのだから,当たり前だな。だから,吠えない。吠えるはずがない。肉をくわえてるのに口を開くのはアホ犬だ。 口を開けると(開けるもんか)肉は落ちる。口を開けると,あの犬も口を開ける。あの犬も肉を落とす(上にだけど)。 口を開けると,その結果,あの犬も口を開ける。 でも同時に? 口を開けた結果,あの犬が口を開けるのに,それなのに同時? それならば,もしもあの犬が口を開けたなら,それが原因で口を開けて肉を落とすはめになる?
「そんなバカな!」
そうです。そんなバカな,で済む話です。けれども,お犬はご主人さまが大好きなのです。
口を開けるか開けないかは,もちろん,選べる。うん,選べる。やってみないけど。「口を開けない」は,もう選んでいるんだから,「口を開ける」を選ばないだけだけど。 選ばないけど,口を開けるは選べる。でも,知りたいのはそんなことじゃない。あの犬が口を開けたら,口を開けて肉を落とすなんて嫌なのに,口を開けることになるのだろうか。知りたいなあ。 でも,あの犬は口を開けない。だから知ることは出来ない。やってみれるのは,口を開けてみることだけか(やらないけど)。 けれども,ご主人さまは,何度も右手を挙げてみてたなあ。
ご主人さま!だーいすき!
お犬は口を開けました。上等のお肉は落ちていきます。
水面はしばらくの間バチャバチャしていましたが,やがてさざ波も滑らかになり,(肉をくわえていない)犬の姿を映しています。そして,お肉は,鏡映の犬の横に沈んでいます。
お犬は肩越しに振り返り,お犬の後ろにお肉がないことを確かめます。それから大喜びで叫びました(つまり,吠えました)
お肉は落ちてあそこに在るけど,あの犬の肉は消えた。これが結果なのだから,そしてあの犬は結果を作れないのだがら,自分で口を開くことなんかできないに決まってる!
何と言うか,何と言ったら良いのかと言うしかないのですが,お犬は,この「考察」を早くご主人さまに報告したくてたまりません。すごい勢いで走って行き,ご主人さまの書斎へと突進します。
ちょうどその時,伯爵さまはお仕事を終えてご休憩モードに入った所でした。「考察」を嬉しそうに報告するお犬(つまり,ワンワン吠えて飛びついてくるお犬)の首根っこを両手で抱えて押し倒すと,このふたりは誰も見ていないことを良いことに,思う存分イチャイチャしたのでした。まことに幸せなふたりでございます。