乙種破壊工作
2-1. テロ
最後はめちゃめちゃなストーリーに行き着いたのですが,まあ,このストーリーも乙種に変えれば,ちょっとした破壊工作(の陰謀論)にはなりそうです。ついでに言えば,破壊工作にも乙種があるのです。
まず,テロという言葉と破壊工作という言葉の違いは無視しましょう。と言うより,テロという言葉をかなり広い意味で使うことにします。つまり,テロは,いわゆるテロの事です。 それでは,まず,次の条件を満たすテロを考えましょう:
- 具体的な目的が設定されていて,それを実現するためのテロを計画・実行する。
- 失敗する可能性があるにしても,設定された目的を達成する意思を持って行う。
- 実行グループのメンバーは,かなりのリスクを覚悟している。
- 実行グループは比較的少人数。
さて,「次の条件を満たすテロ」などと言いましたが,大抵のテロは,こんなものでしょう。 このようなテロを 甲種テロ と呼ぶことにしましょう。当然,これから 乙種テロ を考えることになります。
2-2. 取り除かれる条件
条件1
乙種化のために,まず,条件の1 を取り除いてみましょう。 テロで歴史を変えることはできない と言いますが,これは,テロが目的を設定していることを前提としているからです。 ほとんどの テロは,設定した目的を実現する(ように歴史を変えること)ことに失敗するのですが,それでも, テロにより歴史は変わる のです。設定した目的とはまったく違う方向に変わるのが,ほとんどなのですが。
乙種テロでは,テロの成功条件としての明確な達成目的は,設定されません。物理的な標的ならば,設定されているかも知れません。しかし,標的が「あの重要施設」だとしても,具体的にどのような損傷を与えれば成功なのかという達成目的までは,設定しません。その施設が,なんらかの,ただし可能な限り深刻な,損害を受ければ良いのです。
具体的な標的が無い場合も考えられます。例えば, こんな世界は滅びてしまえ でも良いのです。「こんな世界」が標的と言えば確かにそうなのですが,「滅びてしまえ」というお気持ちの割には,実際の損害を受けるのは「こんな世界」のごく一部となることが多そうなので,標的と言うには相応しくないのです。
乙種テロは,なんらかの損害につながることを狙っているのであって,どのような損害を狙っているのかという点については,具体性を欠きます。
条件2
条件の2 も不要です。「うまく損害に繋がると良いな」という期待だけであって,確実性は求めません。
例えば,原子力発電所への送電線にテロを仕掛けてみましょう。甲種テロならば,送電線の鉄塔を破壊する,送電線を切断する,落雷など比較にならないほど急峻な立ち上がりのサージを流し込む(いったい,どのくらいの費用がかかることやら)など,いずれにせよ,いかにもテロらしいテロとなることでしょう。
一方,乙種テロならば,鉄塔のボルトを少し抜いておくだけ。
そんなことをしても,鉄塔は倒れません。しかし,将来のある日,地震や豪雨などの助けによって,鉄塔は倒れるかも知れません。
それでも,送電線の先の施設への被害は「嫌がらせ」程度のものになりそうです。場合によっては,良い危機対応訓練となるだけのことでしょう。
しかし,「ある日の地震」が巨大地震であり,標的の施設がその巨大地震(ついでに津波)により混乱していたら? 短期間であっても外部電源喪失は,標的に対する「最後の一押し」となるかも知れません。
それでは,実行犯はそんなことを期待しているのでしょか。そんな偶然に期待しなければならないのでは,犯行の意欲を継続することは難しいでしょう。と言うより,まあ,無理です。「鉄塔のボルトを抜く」などという地味な工作をやる気が出るとしたら,それは, いつか,なんか被害が生じたらうれしいな という「地味テロ」を目指しているからでしょう。もしかしたら,どの施設に繋がる送電線か把握していないのかも知れません。いずれにせよ,原子力発電所の壊滅などという大目標を設定しているわけではないのです。
条件3
次に「かなりのリスク」ですが,これは既に取り除かれています。例えば,「鉄塔のボルトを抜く」という犯行実行の日時と「鉄塔の倒壊」という日時には,かなり長期間の隔たりがあるはずです。したがって,犯行の結果が生じてから捜査が始まるのでは,もはや,追跡は不可能に近いのです。捕まるリスクは,人里離れた山中でボルトを抜いている僅かの時間に偶然,現場を押さえられる場合のみでしょう。そしてその場合でも,ボルトを抜く行為の結果は,せいぜい電力会社への損害が想定されるだけですから,「悪質ないたずら」で済みそうです。つまり,リスクは軽微なのです。
もっと地味なテロとして,なんらかの工事の際に「屋上の縁に工具を置き忘れる」というのはどうでしょうか。見つかったところで,親方にどやされるだけです。警察沙汰にはならないでしょう。しかし,見つからないままならば,将来のある日,遙か下の地面に落ちるかも知れません。どのような損害を与えるかは不明。それでも,これは迷惑極まりない,ことによったら人命に関わる「地味テロ」となるのです。
条件4については
地味とは言っても「鉄塔のボルト抜き」ならば,さすがに,そんな行為を(小なりとは言えども)リスクを冒して実行する人間は,それほど多くはないでしょう。
しかし,工具の置き忘れのような「地味テロ」ならば? 情勢によっては 自然発生的に膨大な数の協力者が発生する 可能性もあるのです。これこそが,地味テロの核心なのです。
2-3. 地味テロ
巧妙な地味テロ
地味テロには,まず,標的(を設定しているならば標的)に対して,もしくは「世の中」に対して,害意を持っている多数の人たちが不可欠です。ただし,それらの人たちを募集したりオルグしたりといった事前準備は必要ありません。
つぎに手段ですが,地味テロと言っても,さすがに工具の置き忘れでは地味すぎます。もう少し巧妙な手段を考え出すべきでしょう。どのような「巧妙な手段」となるかは,標的がなにか,それとも標的は限定していないのか,いずれにせよどのような被害を与えたいか,そして,なによりも発案者の知識レベルに依存します。
後は,その「巧妙な手段」を広めるだけです。その「巧妙な手段」の実行リスクが比較的小さいならば,自然発生的に地味テロリストの大集団が発生するわけです。
総体としての地味テロ
お気づきのことと思いますが,要するに,地味テロは嫌がらせのようなものです。ただし,それは個々の地味テロが嫌がらせ程度のものというだけのことです。例えば送電線に対しての地味テロでは,個々の地味テロが効果を発揮する確率は,かなり小さいはずです。したがって,期待値としての効果は,嫌がらせ程度のものと言えるでしょう。
地味テロの脅威は,総体としての効果にあります。つまり, 個々のテロの期待値 E が小さくても, 地味テロの回数 n が大きければ, 総体としての期待値 E× n は大きな値となるわけです。
甲種テロでは,それなりの数値 E と比較的小さな回数 n で総体としての効果を狙います。それに対して,地味テロという乙種テロでは,小さな数値 E と膨大な回数 n での効果を目指しているわけです。
方向性を揃える
世の中に対する不満が増大すれば,世の中に対する嫌がらせは増加します。中には大きな E の「嫌がらせ」もあるのでしょうが,顕著なのは n の増加です。したがって,それらの「嫌がらせ」でも, E × n は大きな値となるわけですが,これをテロと呼ぶことはできません。あくまでも,個々の事例を考えるべきであり,また,「嫌がらせ」などと呼ぶこと自体,あまりにも冷たい態度と言わざるを得ません。
そしてもう一つ。このような「制御されていない不満の爆発」の与える効果は,個々の効果の合計値にはならないのであり, E× n という値を実現することはできないのです。
地味テロの必須条件は,「嫌がらせ」の方向性を揃えることです。この制御により,個々の嫌がらせの総和としての効果を実現できることになります。
それでは,疑似科学の数式で説明を。ただし,あくまでも疑似科学です:
- 個々の効果のエネルギーの総和は,方向性の制御を必要とせず常に E× n
- 総体としての効果は,方向性の無秩序が減少するにしたがって(エントロピーの低下にしたがって)増加し, E×n に近づく
- 方向性が完全に無秩序な場合,総体としての効果は
E× √ n
なんだか,格好いいでしょ? でも,数式には,特に最後のルートを含む数式には,根拠はありません。
重要な点は,地味テロには制御が必要ということです。対策
地味テロは,極めて厄介です。特に,身のまわりの世の中に対しての地味テロとなると,いったいどのように防げば良いものやら・・・・・・
なんらかの「巧妙な手段」を共有する地味テロリスト集団が発生してしまった後でも,その「巧妙な手段」が特定されているならば,総力を挙げて監視すれば防げるかも知れません。例えば,仮に「鉄塔のボルト抜き」が「巧妙な手段」ならば,送電網の情報をアクセスしづらくするといった手段も考えられます(どれほどの効果があるかは別として)。 しかし,次から次に各種様々の「巧妙な手段」,ただし,ある程度の方向性が揃えられた巧妙な手段,が広まってしまうと,防御側の人員不足は避けようのない帰結です。
したがって,その手段を広めようとする活動を阻止することになるのですが,厄介なのはこの段階です。革命の同志を誘うパンフレットならば,その配布を犯罪として取り締まることもできるのですが,(これは地味すぎて巧妙とは言えない例ですが)スパナを屋上の手すりに置き忘れる地味テロならば,それをそそのかすのではなく,それが落下してとんでもない損害を与えてしまう危険に注意を促し, だから置き忘れてはいけません,安全第一! と,善意の書き込みを広めれば良いのです。それが無理ならば, こんな地味テロも考えられます。政府は早く対策をとるべきです と,善意の書き込みをしましょう。「・・・・をしましょう」と言っているのですが,これは単なる表現手法です。勧めているわけではありません。
「勧めているわけではありません」も乱用すると,本意は別だと示唆しているみたいですね。だからと言って,これを教唆として告発できるのでしょうか。
現行の法規では,おそらく罰則を与えるのは無理です。このような持って回った「広める」活動は,リスクなしに行うことができるのです。
防御側に残された手段は,ネットの徹底的監視だけでしょう。やがて押し寄せる地味テロで破滅することを避けたいならば,行政によるネットの監視を受け入れるしかありません。
2-1. シキマ会の誕生
うにゃうにゃした結論
そうです! 以上,地味テロなどと称するエビデンスを欠くものをでっち上げて,権力による自由の制限をそそのかしているのです。しかも,あたかも原子力発電所の事故がテロの結果のような陰謀論まで匂わせて。どうせなら,地震や津波も某国機関の陰謀とする甲種陰謀論ならば,まだ可愛げがあるのに。
常識のある人たちにとって,こんな話は馬鹿げているだけでなく,不快です。地味テロなどと言って,特定の国籍を持つ人たちを「害意を持つ人たち」にでっち上げたいのでしょうか。そこまで悪質でないにしても,「世の中に対しての害意」などと一方的に言い切れるほど,世の中は公正だと考えているのでしょうか。ひどい話です。
つまり,ここまで書いてきたことは,常識(というか良識)を持つ人たちにとっての「論外」に属するのです。良質な人たちのグループに加わりたいならば(もしくは,そこで浮いてしまいたくないならば),「論外」は論外として片付けましょう。ついでに言うならば,地図から送電網の記載を取り除くなどという,知識への自由なアクセスを権力側が制限する行為を容認するなど,論外です。
なにが論外かを共有することによって「良質な人々」が決まるのです。
もし,A国がB国の弱体化を狙うならば,(A国に都合のよい「論外」を共有する)良質な人々の集団を援助するという手があります。行き着くところ,そのような人々の集団はA国の手先として行動しているような羽目になり・・・・・・と言うようなストーリーは,それこそ陰謀論なので無視しましょう・・・・・・と良識を持つ人たちは考えるのであり,だからこそA国は・・・・・・というのは陰謀論であり,だからこそ・・・・・・うにゃうにゃうにゃうにゃうにゃうにゃうにゃにゃうにゃうにゃ
もはや陰謀でもなく
チート技
まあ,あんなことこんなこと,色々言えば言えるのですが,いずれにせよ,陰謀論は要人暗殺のようなものなのでしょう。困ったものではあっても,その程度のものに過ぎません。いえ,もちろん,暗殺が世界大戦の引き金になることもあるのですから,「その程度のもの」という「その程度」は大変なものなのですが,それでも,その暗殺が世界大戦の原因であるとは,言えないでしょう。高々,引き金なのです。
ところで,陰謀論はチート技の一種です。陰謀論の側から言うと,たとえどのように反論されても,その反論の根拠として提示された根拠自体が陰謀によるものと主張すればよいので。
それでも,(多少なりとも)まともな議論を続けてしまうと,あれもこれも陰謀として切り抜けようとしても,破綻が目立ってきます。そんなときには, 反論してくる「あいつ」はシキマ会の回し者 であると主張すれば良いのです。発言内容ではなく発言者そのものを攻撃する,これはチート技です。
そして問題は,このチート技なのです。
対陰謀論
さて,「賢い人たち」が陰謀論に対処しているとしましょう。その陰謀論は,できが良くありません。したがって,きちんと根拠を上げて,確実な反論をすることは可能です。しかし,とても面倒です。しかも,当たり前のことですが,この仕事は,まったく評価されないのです(ものによっては,本の売れ行きは良いかも知れませんが)。アインシュタインやゲーデルが提唱した理論が誤っていることを指摘できれば,高く評価されます。でも,「おばかさん」の主張の誤りを指摘したところで,学問的な評価には値しません。作品にはなり得ない労苦など,やってられません。
そもそも,「おばかさん」の主張の誤りを指摘する作業は,必要なのでしょうか。実際には,世の中に,その「おばかさん」の主張が「おばかさん」による主張と受け取られているならば,その悪影響など心配する必要はないのです。たいていの人は,その主張が「おばかさん」が主張しているものとわかっていれば,真に受けることはないのですから。
それでは,ある陰謀論を主張する本が出版されているとしましょう。悪影響をくい止めるために反論したいのですが,ここで,誘惑が待ち構えているわけです。その本の主張する「陰謀論」の内容そのものに反論するよりも,その本が「おばかさん」によって書かれたものであることを指摘する方が,簡単なのです。 中学生レベルの英文解釈の誤りを始めとして,著者が「おばかさん」であることがわかる欠陥は,すぐに見つけられるでしょう。それを確実に指摘することも,文献を探してくるなどの苦労など必要もない簡単なお仕事です。
「陰謀論の影響力を削ぐ」という目的は,これで達成されます。
一般シキマ会の誕生
こうして,立派な肩書きを持った「賢い人たち」が「おばかさん」をボコボコにぶちのめす本が出版されることになります。しかし,実は,その「おばかさん」が「おばかさん」である程度は,すごく勉強のできる「賢い人たち」ではない,という水準のことであり,その水準で「おばかさん」を決めるならば,人口比で「ほとんどの人たち」が当てはまってしまうのです。
ボコボコにぶちのめす本を読んでいる「ほとんどの人たち」は,「中学生でもわかる誤り」を指摘された(悪影響を及ぼしそうな本の)著者が「おばかさん」であることに同意して,一種の爽快感を味わうことでしょう。しかし,それは一時的なものであり,むしろ,微かな居心地の悪さ,というよりは,得体の知れぬ反感が蓄積するのではないでしょうか。
「中学生でもわかる誤り」として指摘された個々の誤りならば,読者も「ひどい誤りだなあ」と同意するかも知れません。しかし,それならば,その程度の誤りを犯さずに一冊の本を書けるのか,となると,自信のもてる人は少ないでしょう。要するに,「すごく勉強のできる人たち」が「そうでもない人」をボコボコにしているのです。
それでは,「すごく勉強のできる人たち」は「そうでもない人たち」をボコボコにすることを楽しみに生きているのでしょうか。まあ,そんな人もいるのでしょうが,おそらく例外です。軽い労苦と雖も,そんなことに関わる必要もなく,笑って見過ごす場合が多いはずです。
それでは,どのような場合に「ボコボコにする」のかというと,「そうでもない人」が「賢い人たち」にとって許容できない「論外」を主張している場合です。そのとき,「そうでもない人」は「おばかさん」としてボコボコにされるのです。
こうして, 「おばかさん」の考えるようなこと という(悪い)「論外」についての認識を共有する「賢い人たち」というシキマ会(賢い)が発生するわけです。
>「賢い人たち」は「そうでもない人たち」と対立しようとしているわけではないし,排除しようとしているわけでもないのです。しかし,各種様々な(悪い)「論外」の(悪い)理由は様々なのですが,「おばかさん」をボコボコにするという構図は共通です。そのうちに,共通部分だけが目立ってきます: 「おばかさん」の考えるようなこと という「論外」を共有する「賢い人たち」というシキマ会(賢い)と受け取られる訳です。
陰謀論に限らず
ところで,この 相手の主張に対してではなく,相手そのものを対象とする というテクニックは,チート技です。このチート技は,相手の主張が陰謀論である場合に限らず,ほぼ万能です。さらに,相手の能力を検討するのではなく, なぜそのような主張をするのか という,背景や鬱積した動機などを検討しても良いのです。例えば,AさんがB国を批判する主張をしているならば,Aさんの人生がうまくいっていないことに由来する劣等感などを指摘しておけば,それだけで,Aさんの主張は「まともに取り上げるに値しないもの」に格下げされるでしょう。
これは,議論のすり替えです。しかし,そのような「鬱積した感情から来るさえずり」と分類された主張は,もはや,まともに相手にする気のしないものになっているわけで,影響力を削ぐという目的は達成です。敵が奇怪なロボットをラジコン(懐かしい言葉!)で操って攻撃して来るならば,ロボットではなくラジコンを操作する弱っちい奴を殴れば良いのです。
ところで,本当のところ,操縦者を殴っているのでしょうか。「人生がうまく行かない劣等感」といった動機は,それを想像しているだけで,確かめようがないのです。実のところ,これは言いたい放題です。「オレはすれ違っただけで処女かどうかわかる」と主張する「オレ」くんと,似たようなものでしょう。つまり,ロボットの操縦者を殴っているというよりは,ロボットの送受者に「バーカバーカおたんこなす」と罵っているだけなのかも知れません。
ある主張の背景を分析することを全否定してしまったのでは,(いわゆる文系の)学問の全否定に繋がります。これはこれで,必要な議論なのでしょう。しかし,なんらかの主張をしている相手に対して,その主張の「隠れた背景」を持ち出すのはチート技なのです。たとえそれが「バーカバーカおたんこなす」のようなレベルでなく,学問的な根拠を持つ慎重な分析に基づくものであったとしても,チート技なのです。
おそらく,「賢い人たち」は露骨にチート技を使うようなへまはしないでしょう。それでも,社会学的一般的考察と特定の個人についての洞察を結びつけるテクニックは,色々あるのです。まあ,もう少し「バーカバーカおたんこなす」に近いテクニックならば,「・・・・・・という意図が透けて見える」といった言い回しに頼る手もあるようで,要するに,そのあたりは腕次第なのです。
これは,多少は賢くないと使いこなせない技です。下手な使い方をすると,すぐに(旧)2ちゃんねるのレスバトルになってしまいます。「賢い人たち」ならば,上品にうまく使いこなせるのでしょうが,それが非の打ち所のない巧妙なものであればあるほど,その悪影響は蓄積されていきます。こうして,シキマ会(賢い)は立派に育っていきます。
ペンは剣よりも強いので
剣に代表される直接的暴力が支配的であった時代には,ペンの力は希望の光だったことでしょう。剣や銃を用いた決闘で決着を付けるよりも,議論により決着を付ける方が望ましいのは,当然です。 剣を操る技術を持つ騎士たちの決闘ならばまだしも,剣を使えないものに対して剣を振るうのは,完全に暴力です。
残念なことに,言葉を巧みに使う技術は,剣を巧みに使う技術以上に差がつくもののようです。「賢い人たち」に言葉で対抗しようとしても,敵わないのです。
「その他の人たち」にとって,ペンは暴力です。
「賢い人たち」に「その他の人たち」がボコボコにされる光景を見続けるうちに,特に,そこに「言葉を操る技術」を感じさせられるうちに, シキマ会(賢い)という怪しげな集団 が存在するという陰謀論が,強化されていくのです・・・・・・
というストーリーに持っていきたかったのですが,まあ,そんな陰謀論的心情は致命的な悪影響はもたらさないことでしょう。「賢くない」という特性を活かして得票を得る人は,繰り返し登場することになるでしょうが,それは,むしろガス抜きのようなものです。「賢い人たち」に対する反感をうまく利用する「賢い人」が力を得るよりは,ずっとましです。
それよりも本当にヤバいのは,「賢い人たち」に対する不信感が増幅していくこと自体なのです。この不信感にポピュリズムなどというネーミングを進呈したところで,解決にはなりません。残念ながら,不信感の成長を避ける手段は,無いのかも知れません。
ニャアニャア,ゴロゴロ,ウーッグルグル のような単純な音声にせよ,言葉は,群れで生きる生き物たちが群れの仲間になにかを知らせるためのものだったのでしょう。つまり,相手に対してポジティブな姿勢で使われるものだったのでしょう。
それと同時に,群れの外の敵を,もしくは,むれの仲間を威嚇する手段としても,遙か昔から言葉は使われてきたはずです。ですから,言葉の二面性は必然なのでしょう。
複雑で微妙な「なにか」を知らせるために,言葉は複雑なものに仕上がって行き,さらに,言葉を用いて高度な考えを伝える技術が出来上がって行くのも,当然のことです。それでは,言葉による威嚇については?
本来,これは単純であるべきだったのです:
「ぶっ殺すぞ!てめー!」
「何が言いてぇ! なんだと! どういうことだ! 死にてー奴からかかってこい!」
言語の敵対的な用法は,これが望ましい姿なのです。
敵対的な姿勢での高度な言語の用法が発達してしまったのは,困ったことです。今に始まったことではなく,プラトンの時代から(おそらく,それよりずっと前から)困ったことだったのでしょう。そして,うまい対処法は未だに発見されていないのだから,おそらく,避けようがないのです。幸か不幸か,僅かな例外を除いて剣による支配が圧倒的だったために,「賢い」に対しての信頼が完全に失われることはなかった訳ですが。
政治や宗教の権威的支配から自由な社会では,そして剣がペンの支配下にある世界では,「賢い」に対する不信感はどこまで進むのでしょうか。
(文系的な)「賢い」に対抗して(ある程度の)権威的支配が復活するのかも知れません。もしくは・・・・・・思い付かないのでやめときます。
しかし,まあ,あまり気にすることはないのでしょう。もっと即効的で極端な事態,つまり,(理系の)学問の失敗が破滅的な厄災をもたらし,その結果として,ポルポト的世界が支配することになるのかも知れないので。