生き物のお気持ち

生き物のお気持ち

2-1. 恐怖

自分の身体を捕食者から守ろうとする行動,この,生存にとって最も有益な「間違い」の生じる前に戻ってみます。

その当時のボサッと暮らしている生き物でも,身体を囓られるとか熱い石に触れるとかの不快な刺激からは,逃れようとしたことでしょう。そして,なんらかのミスコピーにより,捕食者を時間的に継続するひとつの対象として認識して,そいつに噛みつかれる前に逃げる,もしくは,戦うという行動ができるようになったとしましょう。

その場合,捕食者を認識した瞬間にその行動をとらなかったとしても,その瞬間に苦痛が生じるわけではありません。その苦痛は,少し後の自分が受けることになります。だからと言って,これを 将来の自分という他人のための利他的行動 とは言えません。まだ離れたところにいる「あれ」と,そして,すぐ側まで来て囓るであろう想像上の「あれ」,この時間的な隔たりのある両者を一つの対象として認識できるのだから,まだ痛くない自分と,囓られて痛いであろう想像上の自分も,一つの対象として認識しているはずです。その意味では,将来の自分は他人ではないのです。

しかし,捕食者などの外界の対象は,視覚などの感覚器官を通じて実体化されている対象であり,同一のものとして認識するか否かは,実体化の段階での違いに過ぎません。しかし,(今は)痛くない,と囓られて痛いの違いは,もっと原始的なもので,生き物にとって,これはとてつもない違いです。どうすれば,この違いを乗り越えることができるのでしょうか。シーラカンスよりずっと前の連中が,ゲームプレーヤーのような推論で行動していたとは思えません。もっと圧倒的な強制力を持つ「お気持ち」が欲しいのです。


おそらく,捕食者を見た瞬間に,私たちが恐怖と言っているところの恐ろしく不快な感情が生じ,その感情が捕食者と結びつき(というミスコピーのおかげで),その不快な感情を発散する対象から,逃れようとしているのでしょう。

したがって,身体を囓られる痛みから逃れようとするのと同じことで,そいつに投影された恐怖(という苦痛)から逃れようとしている,と言ったところなのでしょう。

2-2. ご褒美

吹雪の中の狼

それでは,極寒の吹雪のさなか,まあ居心地の良い穴蔵から出てきて狩に出かける狼さんの身になってみましょう。

外は不快な刺激に満ちています。出かけたくないのです。腹は減っていますが空腹という苦痛よりも,吹き荒れる吹雪の方が辛いのです。しかし,このままじっとしていると,もっと辛い空腹が来ることは分かっています。この,将来の自分という他人が受ける(ものすごい空腹という)苦痛への恐怖に駆られて,いやいや外に出て行きます。

それだけのことなのでしょうか。身体を囓ろうと近づいてくる捕食者と違って,将来の空腹は実体として見えずに,また,時間的隔たりも大きいのです。この時間的隔たりは,将来の自分という自分の他人性を強めます。

自分と他者を区別する簡単な判定は,痛みを感じるかどうかです。「自分の足」が自分である理由は,それを叩くと痛みが生じるからです。他人の身体は,叩いても痛みは生じません(すごく反社会的発言ですね)。その意味では,将来の自分が叩かれるとしても,痛みは生じていません。なんらかの経験により,それを予想することができるだけです。

進化の過程での間違いにより,このような経験に基づく予想を恐怖に結びつけることができたとしても,恐怖だけで狼さんを吹雪に耐えて進ませることができるのでしょうか。

可能なのかも知れません。しかし,時間的隔たりが大きくなればなるほど,恐怖システムの効率は減少し,もっと優秀なシステム ご褒美システム が必要になるのでしょう。つまり,凍り付きそうな身体の痛みをやわらげてくれるとか,さらに進んで,なにやら満ち足りた感情で満たしてくれるとか,そういった(狼さんという個体の内部の)仕掛けが必要になるのでしょう。

こうして, 狼さんは,吹雪の中に出かけていきます。狼さんは,嫌な結果を避けるために努力をすることができるのです。

2-3. 夏休みの宿題

しかし,私の夏休みの経験から言うと,もしくは,宿題提出日の前日における経験から言うと,予想されるいやな経験は宿題をやる努力に繋がりません。

これは知力の欠陥とは言えません(たぶん)。宿題をやらない場合にどうなるかは,ちゃんと推論できるのですから。しかし,将来の自分という他人の受難は,現在の自分とは遠いのです。もちろん,将来の自分の受ける嫌な結果は,予想されるだけでなく,ありありと実感できるのです。将来のその嫌な現実は現在にも影を落として,心から楽しく遊ぶこともできません。恐怖は影のように,そこに在るのです。それにも関わらず,努力をすることができないのです。

それでは,狼さんは,また,すぐに宿題に取りかかれる人は,もっと強い恐怖を感じているのでしょうか。それならば,その人は(もしくは狼さんは)もっと辛そうな顔をしているはずです。しかし,そうも見えません。

ついでですので,なぜ夏休みの宿題に取りかかれないか,考えてみましょう。狼さんが非ミーア的「ご褒美システム」を持っているのだから,ヒトもまた,それを持っているはずです。それなのに,なぜうまく機能しないのでしょうか。

おそらく,理屈は単純です。狼さんは,すでに腹を空かしているのです。その空腹の辛さが,遠征に出かける最初の一歩に充分ならば,その一歩により「ご褒美システム」が発動し始めます。したがって,狼さんは吹雪の辛さにめげて穴蔵に戻ることなしに,狩を続けるのでしょう。

一方,夏休みの宿題に手を付けなくても,取りあえず,辛くはないのです。ご褒美システムの発動のためには「努力」というものを始めなければならないのですが,この努力というものを始める誘因がないのです。つまり,努力を「辛いもの」でなくするためには,努力を始めなければならないのですが,その始めようとしている努力を「辛いもの」でなくするためには,努力を始めなければならないのです。

叱られて宿題をすることを強制されても,それは努力ではないので,ご褒美システムは発動しません。宿題は「辛いもの」であり続けます。

ちょっと前で,狼さんの空腹感に相当する誘因がないと言いましたが,将来の自分が味わう結果への恐怖は,現在にも影を落としているのですから,それが「狼さんの空腹」の代わりになるはずです。残念ながら,叱られて強制された経験は,その「将来の結果が落とす不吉な影」を「叱られているようなもの」と捉えることもあるのでしょう。その場合,宿題に手を付けても,それは「努力」ではなく強制になってしまい,「ご褒美システム」はうまく発動しません。

同じ「強制された労働」でも,鞭で打たれながらガレー船を漕ぐ捕虜ならば,そのうちに苦痛をやわらげてくれる「ご褒美システム」が発動するのかも知れません。しかし,将来の結果の投げかける影は,そのような容赦のない鞭ではないのです。

事態はもっと悪いのかも知れなせん。宿題は将来の恐怖に結びつく故に,それが強くてもまた,いや,強ければ辛いほど,それから逃げてしまうのかも知れません。そうなると,恐怖システムは,全く効果を発揮できません。

結論らしきものを言うと,努力を辛いものでなくするためには,自発的な努力が必要なのです。まるで鶏と卵のように。

いや,まさか,半世紀を経て「宿題をやらなかった理由」の作文をするとは思いませんでした(反省期ではなく半世紀です。未だに反省をせずに言い訳を試みているのですから)。それ以上に,子供のときから,いらん理屈をこねくり回す嫌な子だったのですが,その能力をそのまま素直に成長させることになるとは! 

いつも通り,ひどい脱線をしてしまいました。 それは兎も角,個人的な言い訳では格好がつきません。一般化してしまいましょう: 群れのミーア的システムが急速に変わっていくと,非ミーア的な仕掛けの変化が追いつかなくなる。

まあ,そういうこともあるのでしょう。


ところで, 優秀な「ご褒美システム」を持つ生き物にとっての幸せは,努力の結果を得た瞬間よりも,「ご褒美システム」の下で努力をしている過程なのでしょう。過程そのもので報われているからこそ,遙か彼方の抽象的目標に向かって努力できるのです。そして,努力の結果を受け取る私は,遙か彼方であり,他人性が強いのです。この「ご褒美システム」は,目標の他人性の強さ故に,本物の利他的行動への「ご褒美システム」としても機能しそうですね。 これは,とても美しい世界です。

2-4. もっと美しく

さて,Sweden Syndorome は,非ミーア的誤り,つまり, 私をぶちのめしてくれた対象のために! というお気持ちが生じる,という非ミーア的誤りから発生しました。

そして,それとは独立にですが,非ミーア的ご褒美システムも発生しているならば,究極の「ぶちのめされる」であるところの「捕食者のご馳走になる」について,それをやり遂げる努力に対しても,ご褒美システムが発動してくれても良さそうなものです。

つまり,ライオンに追われた鹿さんは,ありとあらゆる努力をして逃げようとするのですが,「もうだめ」という状況になりライオンに囲まれると,死を受け入れSweden Syndorome 状態になり,そして,食べられちゃうという感覚を受け入れる「Sweden Syndorome の目的遂行」のための努力に対して,ご褒美システムが発動し,鹿さんの痛覚は緩和され,静かに食べられていくのです。

本当ならば,美しい世界ですね.

鹿さんでなく,致命傷を受けて緑の柳の下にひとり横たわるコサックさんならば? 最初は,死はカラスの姿で現れ,そいつらに「まだ待ってろ」と言い聞かせながら,戦友や故郷の妻,そしてかわいそうな母(マーティ)のことなど,色々とゴチャゴチャ考えて,近づいてくる死に抵抗しています。しかし,あきらめが進むにしたがって死は「マーティ・ゼムリャー」(母なる大地,世界としての母?)の姿に変わり,コサックさんを包み込んでくれるのでしょう。


美しい世界ですが,残念ながら,このような仕掛けは,Sweden Syndorome とご褒美システムを前提としたところで,保証されません。死をSweden Syndorome により受け入れている個体へご褒美システムを発動させても,それは進化的優位にはならないのです(どちらにせよ死んでしまうのですから)。不利にもならないので,可能性がないわけではないのですが,進化的優位は個体の「お気持ち」には冷淡なのです。

やさしい死の訪れは,それが本当であることではなく,それが本当だと思ってくれることが,進化的優位なのです。

それでは,今度は憎しみのお気持ちについて考えてみましょう。これは,利他的な行動の原動力にもなるのです。

2-5. 憎しみ

故郷を目指す鮭さんたちの一団が,川を遡っています。ところが,そこに恐ろしい噛みつき血吸いウナギが襲ってきます。鮭の鋭い歯は,ウナギをかみ殺すことができるのですが,もたもたしていると腹や背中に吸い付かれます。そうなると,噛みつくことも振りほどくこともできないのです。吸い付かれた仲間に構わず,一目散にこの危険地帯を通り抜けるしかありません。

本当に,それしか方法がないのでしょうか。そんなことはなく,吸い付いているウナギを,他の鮭が噛み殺せば良いだけのことです。鮭さんが,戦友としての利他心を持っているならば,そうすることでしょう。ただし,戦友に噛みついているウナギを攻撃している隙に,他のウナギの攻撃を受けるかも知れませんし,また,圧倒的な感情として,こんな恐ろしくいやらしい連中の生息域から,速やかに脱出したいのです。それでも,英雄的な鮭さんは仲間を救うのかも知れません。

この英雄的行動は,集団にとっては進化的優位で個体にとっては不利という,いつものパターンです。鮭さんを英雄的行動に駆り立てる「お気持ち」を想像してみましょう。

それでは,もっと前に遡って,実際に身体を囓られるまでは無反応に,ボサッと暮らしていた生き物たちが,身体を囓りに来る捕食者を認識し始めた時代に戻りましょう。捕食者から逃げるというのは,ひとつの手段ですが,もうひとつ,戦うという道もあります。もちろん,それなりの力関係が満たされていればの話ですが。

このとき,捕食されるものの「お気持ち」を表現するならば,囓られる痛みの恐怖と,それにも関わらず逃げずに戦うという「お気持ち」,すなわち,捕食者への
憎しみのお気持ち
と言えるのではないでしょうか。つまり,痛みの経験は,恐怖が勝って逃げるという結果にも,また,憎しみが勝って戦うという結果にも繋がりそうです。

これは,直接の痛みの経験に基づかなくても,捕食者に対しての「恐怖と嫌悪感」が(個体の中に)確立されているならば,成立しそうです。

光属性の感情による利他的行動も,闇の感情による利他も,そして両者の混ざった利他的行動もあるのでしょう。そして,どちらの利他的行動であっても,それを「憎しみのお気持ち」が補助することがあるのでしょう。場合によっては,主役になることも(そして,群れの内部闘争を引き起こすことも)。

さて,仲間の鮭の腹に食らいつく血吸いウナギを目にした鮭さんに戻りましょう。憎しみに駆られてウナギに噛みつきます:

黒い土の薫り,故郷に向かう急流
四百の鮭の群れが進む
食いつかれ,そしてまた食いつかれ
ウナギ玉へと変わる鮭
咬みちぎられ揺れ漂うウナギだった肉片
川底は赤く濁り
二つの種族の残骸が埋め尽くす
ふたたび,ウナギが襲う
友よ,親愛なる友よ,進め!
一匹目のウナギは友の背に食いつく
おぞましく血を吸いくねるアイツ!
憎しみに駆られ,咬みちぎる
血と肉片に変わり漂うウナギ
二匹目は私の腹に噛みつく
もう一匹,そして,もう一匹
憎しみに駆られたウナギが食らいつく
アタマよ,来るな! もう,間に合わない
ウナギ玉となり川底に沈む
友よ,親愛なる友,生きよ!
アタマよ,友よ,私を忘れて進め
故郷は遙か遠く
ウナギ玉に取り残され
友よ,イクラは君のもの
アタマんために死ぬのは素晴らしい

あのですね,鮭に(ついでにウナギに)感情移入してどうするんです?


最後に

  1. ストックホルムは,スウェーデンの都市です。ロシアの都市ではありません。
  2. 進化論は科学です。しかし,実験という直接的な「いつもの手法」が難しく,色々な分野での確定した結果に基づき,慎重に研究を進めなければならない,要するに,とても面倒くさい科学なのでしょう。
  3. 進化論には,「お気持ち」などという感情移入は不要であり,また,禁物なのです。そもそも,DNA とかゲノムといった連中にお気持ちを投影するには,かなりの才能が要求されそうです。
  4. 一方,「進化論を背景とした」思想を展開する簡単な道筋は,生き物の行動に「お気持ち」を投影することです(中立進化説などは,味気ないので無視)。
  5. 鮭に感情移入しすぎるようなへまをしなければ,言いたい放題のストーリーを「進化論を背景とした」思想のように見せかける(いや,むしろ自分自身が思い込む)のは,簡単な作業です。
  6. うまく心を揺さぶるストーリーを作り上げれば,ちょとした危険思想を手に入れることもできそうです。ヤバヤバですね。
  7. ヤバヤバに巻き込まれないためには,免疫を作るためには,あらかじめ言いたい放題のストーリーを豊富に作ってみることです。そのうちのどれかが偶然,原始の咆吼を呼び起こしてしまう危険があったとしても。
  8. それでは,世界にはスウェーデン以外にもたくさんの国があります。まあ色々と,進化論風味のキワモノを作ってみましょう!

そもそも,全体,なにを言いたかったのやら。